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『サライ』本誌で連載中の歴史作家・安部龍太郎氏による歴史紀行「半島をゆく」と連動して、『サライ.jp』では歴史学者・藤田達生氏(三重大学教授)による《歴史解説編》をお届けします。

文/藤田達生(三重大学教授)

後瀬山城を下山した私たち一行は、旧小浜城下町を散策した。江戸時代初期に京極高次によって東西2組に整備された城下町は拡大し、貞享元年(1684)には東組・中組・西組の3地区へと変更された。

私たちが向かったのは、「小浜市小浜西組」である。ここには、商家町・茶屋町・寺町が形成され、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。おおよそ、後瀬山城と小浜湾に挟まれた範囲がこれにあたる。タイムスリップしたような古い町並みであるが、しっとりした落ち着きが感じられた。小浜のかつての繁栄を象徴する「蓬嶋楼」

小浜のかつての繁栄を象徴する「蓬嶋楼」

小浜のかつての繁栄を象徴する「蓬嶋楼」

ここを散策しつつ、元料亭の蓬嶋楼(ほうとうろう)にお邪魔した。明治元年に作られた洒落た御茶屋である。特に、二階にある二間続きの座敷の月を想像する出窓や障子などの心細やかな造作は圧巻で、北前船で栄えた小浜の旦那衆が愛した社交場だったらしい。

小浜は、中世城下町(守護所)を利用しながら近世城下町へと改造して形成された都市である。全国的にみると、天険を恃んだ織豊系城郭とその城下町は、江戸時代の慶長年間から寛永年間にかけて、平野部や海岸部へと移転することが多いので、小浜は山城から平城へと政庁は移動しつつも、城下町は埋め立てを繰り返しながら東側へと拡充されたケースとみることができよう。

大きく場所を移転しなかった理由は、もともと京都の外港とも言える日本海の良港だったことによる。小浜からは、京都へと結ぶ「鯖街道」があったからである。そもそも鯖街道とは、若狭で陸揚げされた鯖を京都へと運ぶ複数のルートの総称である。

その代表が、小浜から熊川宿(福井県若桜町)を経由して滋賀県の朽木谷(高島市)を通り、京都の出町柳に至る針畑越えだ。古来、新鮮な海産物を少しでも早く届けることで、小浜は繁盛してきた。

ここで取り上げたいのが、後瀬山城主となった丹羽長秀である。長秀こそ、小浜において城郭と城下町の近世化を開始した武将と判断するからである。彼については、隣国越前を任された柴田勝家と並んで有名であるが、勝家のような方面軍の一翼を占める宿老とは異なる立場だった。

長秀のキャリアであるが、近江では元亀2年(1571)に近江佐和山城(滋賀県彦根市)を預かり、加えて天正元年(1573)9月には、若狭一国を預けられ、織田家臣で最初の国持大名となった。

長秀は、勝家と並び称されることが多く、織田家のナンバー2と評価されることさえあるが、筆者はそうはみない。勝家の支配する越前は、8郡もある大国である。彼は、前田利家や佐々成政らを与力大名として従えて、越後の上杉氏と対決しながら領地を北へと拡大していった。

これに対して、長秀は基本的に在国せず、君側にあることが多かった。安土城普請を任されるなど城郭普請を得意とし、熱田大工の岡部氏や近江の石工集団・穴太衆を組織した。また佐和山城については、正確には城主としてではなく代官としての支配だった。

佐和山城は、信長が京への行き帰りに宿泊することが多かったから、公儀の城として位置づけられており、その城領とともに管理を任されていたのだった。

そもそも、信長と尾張出身の長秀との関係はきわめて親密だった。年齢は長秀が信長の一つ下であり、信長の養女(姪)を正室とし、嫡男長重も信長の息女を正室としている。親子共々、信長に近い存在だったのだ。

つまり、近習のまま大名化した存在とみることができるのである。それに対して、勝家・光秀・秀吉といった宿老層は、最前線に派遣され何人もの与力衆を率いて敵対大名と戦い、織田領国の拡大を任されたのである。

筆者は、長秀を近習からの出世頭と位置づけている。本能寺の変がなかったならば、天正10年中に天下統一が実現し、それを受けて宿老層の遠国への国替が強制され、信長の一門・近習たちが畿内とその周辺で大名として独立していったと予想される。

つまり長秀のような存在が広く存在するようになり、信長は彼らを政権基盤として位置づけ、さらに専制化するつもりだったのであろう。そうなると、長秀の立場はさらに上昇したはずだ。

長秀は、終生、佐和山城主だったように理解されている。しかし、上述のように当城は代官として預かっているだけて、あくまでも本城は後瀬山城だったのである。現在残る山上の石垣や城下町の町割りの一部は、おそらく長秀時代まで遡るであろう。

旅の3日目は、日本遺産の第一号として指定された鯖街道に関わる重要ポイントにお邪魔した。小浜から車で約1時間かけて根来(ねごり)峠付近まで行き、往時の街道を歩いてみたのであるが、結構厳しい峠道のつづら折れが続いていることを体験した。

鯖街道は、京の都に物資を運ぶ物流の大動脈だった。

鯖街道は、京の都に物資を運ぶ物流の大動脈だった。

いにしえの小浜商人は、鯖をはじめとする海産物を背負い、1日もしくは2日程度で京都へと届けたのである。現在ここは、トレッキングコースとして整備されており、春秋の休日には多くの古道ファンで賑わうそうだ。

上根来には、古民家を活用した休息所が設けられている。それが、「鯖街道御休処 助太郎」である。明治時代に建てられた民家で、風雪に耐え抜いたしっかりとした材木が用いられ、囲炉裏を囲む山村の生活が体感できる施設であり、外には氷室もあった。

羽賀寺

羽賀寺

最後に訪れた古刹羽賀寺では、海の道について考えさせられた。当寺は、霊亀2年(716)に女帝・元正天皇の祈願によって僧・行基が建立し、現在の本堂は文安4年(1447)に再建されたもの。有名な本尊の十一面観音像は、行基が元正天皇をモデルに造ったといわれる。拝観させていただいたが、確かに女性的な柔和な姿だった。

十一面観音像の名作として、訪れる人が多い。

十一面観音像の名作として、訪れる人が多い。

筆者が注目したのは、本堂に並んで安置された安藤愛季像と秋田実季(愛季次男)像である。愛季像は、承応2年(1653)6月に作られたもの。衣冠束帯形で、そのスケールは像高75㎝、袖幅81㎝で、彩色が残る。実季像は、江戸初期のものといわれる僧形像であり、スケールは像高61.5㎝、袖幅105.5㎝で、これにも彩色が確認される。

羽賀寺と強い関係のあった津軽安藤一族の木像が安置されている。

羽賀寺と強い関係のあった津軽安藤一族の木像が安置されている。

「羽賀寺縁起」(誠仁親王作)によれば、当寺は応永5年(1398)と永享7年(1435)と二度におよぶ火災によって、三重塔や本堂などを焼失したという。その再建に活躍したのが奥州十三湊の日本(ひのもと)将軍安東氏だった。この2体は、羽賀寺の本堂を再建した由緒から安置されたものとみられる。

私たちは、既に「津軽半島編」や「渡島半島編」の旅で、陸奥田名部(青森県むつ市)を経由して道南地域で活躍した武田信広について注目した。彼は若狭守護武田信賢の子息として青井山城(小浜市)で誕生したが、後に上国花沢館の蠣崎季繁の婿となって蠣崎氏を継いだという。このあたりは伝承であり、必ずしも信憑性はないが、羽賀寺の再建についても若狭と奥羽・道南地域との古来よりの交易を物語るものであろう。

小浜の地勢とも関わって想起されるのが、寛政年間頃に組屋家当主・組屋邦彦が古屏風の反古のなかから発見された豊臣秀吉の唐入り構想が記されている(天正20年)5月18日付の秀吉右筆・山中長俊が北政所の侍女に宛てた書状である。2日目に小浜市立図書館で拝見した古文書であるが、小浜の商人司で豊臣政権とも深いつながりがあった同家ならではの伝来史料であろう。

文/藤田達生
昭和33年、愛媛県生まれ。三重大学教授。織豊期を中心に戦国時代から近世までを専門とする歴史学者。愛媛出版文化賞受賞。『天下統一』など著書多数。

※『サライ』本誌の好評連載「半島をゆく」を書籍化。
『半島をゆく 信長と戦国興亡編』
安部 龍太郎/藤田 達生著、定価本体1,500円+税、小学館)
https://www.shogakukan.co.jp/books/09343442

『半島をゆく 信長と戦国興亡編』 1500円+税

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