『サライ』本誌で連載中の歴史作家・安部龍太郎氏による歴史紀行「半島をゆく」と連動して、『サライ.jp』では歴史学者・藤田達生氏(三重大学教授)による《歴史解説編》をお届けします。

文/藤田達生(三重大学教授)

かねてから、筆者は尾張時代以来、織田信長が環日本海流通を意識していたと主張してきた。これは、なぜ越前や若狭に目をつけて重臣の柴田勝家や丹羽長秀を国主にしたのか。なぜ安土に本拠地を築いたのか、という問題に対する回答でもある。

これらは、すべて日本海と太平洋の流通を結合させるための施策だったのだ。つまり日本海側の越前や若狭の良港と太平洋側の尾張や伊勢のそれを、近江を経由して結びつけようとしたのである。

ちなみに、信長は入京前後に伊勢攻めをおこない、実弟信包(のぶかね)を長野氏に、次男の信雄を北畠氏に、三男の信孝を神戸氏に、それぞれ養子として入れている。やがて彼らは津(三重県津市)・松ヶ島(同松阪市)・神戸(同鈴鹿市)に築城するが、これらは伊勢湾の有力港湾都市の町人を城下町に移住するためだったとみるべきである。

そのうえで、信長は若狭と近江との物流を川と湖で結びつけたと考える。敦賀に荷揚げされた物資は、川舟で移送され、山を越えて湖北の塩津や大浦などの港町から安土に持ち込まれたのではあるまいか。

琵琶湖では、安土を扇の要に坂本(滋賀県大津市)・大溝(同高島市)・佐和山(同彦根市)・長浜(同長浜市)などの港湾都市を取り込んだ城下町が成立し、ネットワークが形成されていた。若狭からの物資は湖北を介して、これらの城郭を経由して、尾張・伊勢方面か、京都方面へと運送されたのだろう。

南北と東西の流通の結節点に安土が位置したのだ。信長の清須から小牧山に、小牧山から岐阜へ、岐阜から安土へ、という本拠地移転は、領地拡大による流通の結節点移動にあわせておこなわれたものだった。

今回の旅では、かつての若狭の港湾都市の賑わいを感じることを楽しみにしていた。敦賀の場合、中世まで遡るのはむずかしいが、近世の繁栄を伝える文化財は少なくない。その一端は、市立博物館となった昭和2(1927)年に竣工した旧大和田銀行本店の建物(2017年に重要文化財指定)をみてもうかがわれる。

今は市立博物館になっている旧大和田銀行本店

今は市立博物館になっている旧大和田銀行本店

大和田銀行本店は、港町敦賀の歴史を象徴する洋風の近代建造物である。注文主の大和田荘七は、薬種業者であった山本九郎左衛門の次男として生まれた。江戸時代に北前船で財をなした初代大和田荘七に見込まれ養子となり、30歳のときに二代目を襲名し、明治24年(1892)に大和田銀行を設立した。

本店には、建設当初から北陸初のエレベーターを備え、地下レストラン、迎賓館、集会場などがあり、銀行でありながら公共性を兼ね備えた、昭和初期の貴重な銀行建築と位置づけられている。私たちは、展示物を鑑賞するとともに、レストランのあった部屋や迎賓館などを見学させていただいたが、「すばらしい」の一言に尽きる。

一企業としての利益を貪欲に追求するのではなく、銀行を地域社会をリードする社交の場として位置づけようとした荘七の先進性は光っている。博物館をリニューアルした折りに制作した図録類も購入したが、古文書の写真と解読文はもちろん、丁寧な現代語訳と解説文が付され、コラムも興味深く、市民を意識した丁寧な編集に好感が持てた。

続いて、私たちは疋田舟川の里を訪れた。クルマで滋賀県方面に向かうが、取材に同行くださった敦賀市学芸員の奥村香子さんによると疋田は愛発関の候補地でもあるといわれる。ここから山越えで近江に入る地点である。公園として整備した農林水産省の説明板などを要約すると、次の通りである。

往時は多くの荷駄が行き交った疋田川運河。

往時は多くの荷駄が行き交った疋田川運河。

この運河は、文化13年(1816)に小浜藩が開削したもので、幅2.7メートル、長さ6キロである。敦賀で荷揚げされた物資をここまで舟で運び、人の手や馬により山中峠(敦賀市山中)を越えて湖北の諸浦や海津(現在の滋賀県高島市)へと、海津からは琵琶湖上を介して行き来していた、という。

筆者は、信長が尾張の東海道や美濃の東山道などの東西流通を抑えるのと同時に、日本海と太平洋を結ぶ南北流通に着目したと考える。その交点こそ安土だったのだ。当時、若狭に運河が開削されていたかどうか不明だが、敦賀からの荷物の輸送には舟運が利用されたと考えるのが自然であろう。

信長が琵琶湖に着目したのは、東西、南北を結ぶ運河として利用することができたからではなかろうか。これらは、東アジアの国際市場を国内市場に結びつけて重商主義を本格的に導入するための施策とみなければなるまい。

足利義満がかかわった名刹・西福寺

初日の最後にうかがったのが、浄土宗の古刹・西福寺である。山門から入るなり、重要文化財の本堂をはじめとする重厚な建物群に圧倒された。開山は良如上人である。諸国行脚の道すがら近江路を経て敦賀に来た折り奇瑞に遭遇し、ここに一宇を建立したことに始まるという。寺伝によると、ただちに朝廷の許しを受け、将軍足利義満の助力を得て堂塔を完備し、「大原山西福寺」の寺号を勅賜され勅願寺となったとされる。

まさに古刹の雰囲気の西福寺。喧騒とは無縁である。

まさに古刹の雰囲気の西福寺。喧騒とは無縁である。

私たちは、本堂を参拝した後、早速、国の名勝庭園として有名な書院庭園を拝観した。徳川中期のものといわれる1400坪もの広大な庭園で、極楽浄土を地上に表現したという。

中世には広大な寺領をもっており、近世には福井藩から手厚い保護を受けたのが大きかった。山内には、書院(結城秀康寄進)、鬱金桜(幕末の福井藩士松平正直の手植)、また宝物として越前松平家との関係を示す貴重な古文書・文化財が伝えられており、徳川歴代将軍の位碑も奉られている。

西福寺をあとにした私たちは、再び海岸方面に向かった。宿泊したのは、海岸沿いの旅館・長兵衛だった。ここからは、敦賀湾が実によく眺望できる。特に金ケ崎城の北面の絶壁はすばらしい。とても登ることなど不可能だったであろう。

もう一つの敦賀の城郭といえば、大谷吉継が五万石を得て入城した敦賀城である。前領主は蜂谷頼隆で、金ケ崎城は手狭だったことから、現在の敦賀西小学校付近に平城として築城した。三層の天守が営まれたことなどがわかっているが、一国一城令で廃城になり、その後は奉行所として維持されたようだ。戦前までは移築された城門もあったが、戦災で焼失してしまい、現在は市街地となって遺構はほとんど失なわている。

なお江戸時代の敦賀は、徳川家康次男の結城秀康を藩祖とする福井藩の領地となる。結城福井藩が二代で改易になった後は、小浜藩酒井氏の領地となった。天和2年(1682)に小浜藩二代藩主酒井忠直の次男忠稠が、父の死去に伴い一万石を分与されて敦賀藩(鞠山藩)が立藩した。藩庁は、鞠山陣屋(敦賀市鞠山)に置かれて幕末を迎えた。当地は、福井藩と小浜藩との間で揺れ動いたのである。

文/藤田達生
昭和33年、愛媛県生まれ。三重大学教授。織豊期を中心に戦国時代から近世までを専門とする歴史学者。愛媛出版文化賞受賞。『天下統一』など著書多数。

※『サライ』本誌の好評連載「半島をゆく」を書籍化。
『半島をゆく 信長と戦国興亡編』
安部 龍太郎/藤田 達生著、定価本体1,500円+税、小学館)
https://www.shogakukan.co.jp/books/09343442

『半島をゆく 信長と戦国興亡編』 1500円+税

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