文・写真/横山忠道(海外書き人クラブ/タイ在住ライター)
布製品、竹製品、陶磁器などアジアン雑貨の故郷といえる北部タイの街「チェンマイ」においても、銀細工工芸の精緻かつ温もりに満ちた品格は異彩を放っている。北部タイの銀工芸は王朝の幕開けとともに始まるが、先祖代々技法を受け継いできた山岳民族や、隣国ビルマから移住してきた職人集団がもたらした技術が核となっている。その歴史は、今も貴重なアンティークを扱う店や、伝統技法の保護育成に努める寺院などを訪ねると辿ることができる。息をのむほど美しい銀工芸の作品群を堪能しながら、その魅力のヒミツを探る旅に出てみよう。
■タイ銀工芸の源流を見られる「シップソーンパンナー・シルバー」
チェンマイ市街地には「Silverware」という看板を掲げる店があちこちにあり、主に外国人観光客にシルバーアクセサリーやアンティークを販売している。
チェンマイの銀工芸の歴史は、13世紀末に勃興し、北部タイを中心に広大な版図を誇ったラーンナー王朝の創始者マンラーイ王が、ビルマ(現在のミャンマー)から銀工芸職人を招いたことに始まる。元々は中国雲南省のシーサンパンナ・タイ族自治州あたりが発祥とされるが、チェンマイ中心部にある銀専門店「シップソーンパンナー・シルバー」には当時のビルマや中国のアンティークが数多く展示されている。その精緻で情趣に富んだ造形美とともに、職人の魂が乗り移ったかのような生命感には深い感銘を覚える。
タイでは骨董品のほとんどは欧米や中国の収集家によって流出しており、これら貴重な名品もいつまで鑑賞できるかわからない。脈々と伝承されてきた技法のルーツをこの目で確かめられるのは、もしかしたら今のうちだけかも知れない。
■銀工芸職人集団の町「ウアラーイ通り」
ラーンナー王朝の銀工芸技術は、長く王室専用の職人の中で継承され、装飾品や仏教行事で使う銀器などに使われてきた。本格的に産業として振興されるのは、19世紀初頭に長く続いたビルマ占領から北部タイを奪還したカーウィラ王が、ビルマから職人集団をチェンマイ周辺各地に移住させたことによって本格化した。木、漆、紙など現在もタイ工芸の柱となっている技術はこのときに伝わったが、銀工芸の職人集団の居住区となったのがチェンマイ旧市街のすぐ南にある「ウアラーイ」という町である。
現在もシルバー専門店が軒を連ねているウアラーイ通りの中間あたりに「牛の祠」がある。職人たちの故郷の村に金銀をもたらしたとされる伝説の牛が、この地でも銀工芸のシンボルとして祀られているのだ。
ウアラーイの銀工芸技法はこの地で子から孫へと受け継がれたが、現代に至って熟練工の多くは離散または廃業し、現在は当地にある寺院が主体となって伝統的技法の保護育成が進められている。
■至高の銀工芸アートが堪能できる「スッタジットー美術館」
牛の祠のすぐ脇に、銀細工の華麗な装飾があしらわれたビルマ風の門があるが、その先にあるのが「ワット・ムーンサーン」という寺院だ。境内に第二次世界大戦時の日本軍野戦病院跡があることで知られるが、本稿における主役は境内の片隅に静かにたたずむ「スッタジットー美術館」だ。
美術館といってもほんの小さなお堂なのだが、中に一歩足を踏み入れた瞬間、この世ならぬ光景に誰もが息をのむことだろう。壁面、柱から天井まで、びっしりと埋め尽くされた極美の銀細工レリーフの数々には、大袈裟でなく言葉を失うほど圧倒される。
仏教説話やヒンドゥーの神々をモチーフにしたものは、神秘的で典雅な世界が広がっており、北部タイの昔ながらの暮らしを描いた作品からは、生き生きとした民衆の息づかいまで伝わってくるようだ。濃淡のみで描かれた水墨画を思わせる「静」の境地と、丹念に打ち出された立体感によって表現される「動」の情趣が絶妙に共存している。
■これぞ正真正銘の銀閣寺!「ワット・シースパン」
ワット・ムーンサーンからウアラーイ通りを挟んで反対側(西側)にある「ワット・シースパン」という寺院は、前述の通りタイ銀工芸技術の保護育成を推進している寺院だ。境内に響くトンカンという音を辿って行くと、お坊さんが銀の板を打っている作業現場に出会うことができる。銀細工は、一枚の板を背面から一点ずつ丁寧に打ち出すことで表現しているが、小さな鉢ですら完成までに数週間を要するという。
この寺院の最大の見どころは、堂全体に銀細工の装飾が施された「礼拝堂」だ。京都にある銀閣寺は渋みのある木造建築だが、この眩いほどの銀のお堂は文字通り「銀閣寺」と称してもよいだろう。
お堂に入るための水色の階段部分は海を現わしており、堂全体で仏教の世界観を表現している。周囲の外観をひと回り鑑賞するだけでも、その圧倒的な密度に度肝を抜かれてしまう。
礼拝堂の内部は仏像が安置されているが、その内装もびっしりと銀工芸で満たされており、まさに極楽浄土が現出したかのような神聖な空間となっている。
ウアラーイ通りの寺院はその神々しいまでの魅力にも関わらず、参拝客がまばらでいつもひっそりとしている。静寂の中、ゆっくりと時間をかけて銀で満たされた祈りと芸術の世界を堪能してほしい。
■世界から注目が高まりつつある「山岳民族シルバー」
タイ銀工芸のもうひとつの潮流は、タイ北部からミャンマーにかかる山岳地帯に住む少数民族によるシルバーアクセサリーだ。近年はカレン族による「カレンシルバー」が世界的に注目されるようになってきたが、ほかにもアカ族、モン族をはじめとする数多くの民族が、それぞれ固有の伝統的デザインによる装飾品を製作している。
チェンマイ市街ではこうした山岳民族シルバーを取り扱う専門店が多数あるが、その中でリピーターから特に人気の高いシルバー専門店「シェリー」を訪ねてみよう。
シェリーが取り扱っている製品は、草木・動物・幾何学紋様など、それぞれの民族伝来のモチーフをあしらったものから、現代的なセンスを取り入れたものまでバリエーション豊富だ。山岳民族ならではのシンプルで生命感あふれる意匠をベースとしながら、新しいアイディアを自在に取り入れることで、幅広い層に支持される普遍的魅力に昇華させている。
純度90%以上の銀を使用し、まるで細い繊維を編み込んだような精巧な作品を鑑賞していると、民族伝来の文化を堅持しながら常に新しいものを躊躇なく取り入れ、ダイナミックな変化を重ねてきた山の民の感性に感服せざるを得ない。
一方で、東南アジア諸国の経済発展に伴って山岳地帯の若い働き手は都市に移住し、ウアラーイ通りと同じくハンドメイドによるシルバー製品づくりは後継者不足にあえいでいる。老舗店のシェリーでも、店主ファミリーが祖父から教わった技術を引き継ぐ者がいないという、深刻な現実に直面している。
精巧な技法とともに土地に根付いた文化まで編み込まれたシルバー製品が、無機的な工業製品に取って代わられる日は、悲しいことだが遠くないのかもしれない。
●シップソーンパンナー・シルバー(シルバー専門店)
ニマンヘミン通りをリンカム交差点から約150メートル南下した左側にある。
6/19 Nimmanhaemin Rd., A.Muang, Chiangmai
営業時間 10:00~17:30/無休
●シェリー(シルバー専門店)
チェンマイ旧市街を囲むお堀通りからロイクロ通りに入り、約220メートル東へ進んだ左側。パントーン寺院の手前あたり。
59/2-4 Loi Kroh Road, A.Muang, Chiangmai
営業時間 11:00~20:00/不定休
●ワット・ムーンサーン(仏教寺院)
ウアラーイ通り「牛の祠」のすぐ脇にある銀細工で装飾された門を入る。境内に入ってすぐ左側のお堂が「スッタジットー美術館」。
13 Wua Lai Road, Hai Ya, Chiangmai
拝観時間 5:00~20:00/日~金、5:00~24:00/土
●ワット・シースパン(仏教寺院)
「牛の祠」からウアラーイ通りを挟んだ向かい側(西側)の小道を入る。境内に入って右側に向かうと銀装飾で満たされた「礼拝堂」がある。
100 Wua Lai Road, Hai Ya, Chiangmai
拝観時間 6:00~18:00/無休
※注:記載した情報は2019年8月現在のもの。日本円は「1バーツ=3.5円」で計算。
文・写真/横山忠道(海外書き人クラブ・タイ在住ライター)
2004年に日タイ政府間合弁技術者育成事業に従事したのを端緒とし、その後一貫して日タイを繋ぐ活動に専念。2014年にチェンマイ移住。リサーチ・分析スキルを持ち味とした執筆活動を続ける。 海外書き人クラブ(http://www.kaigaikakibito.com/)所属。