海防に関与した幕臣たち

近世城郭は、火器の導入に刺激を受けて誕生したと言われる。たとえば、豊臣秀吉の大坂城天守に大砲が備えられていたように、あるいは藤堂高虎の伊予今治城の櫓に大砲狭間(復元されている)があったように、高層の建造物は大砲の発射台としても機能したのである。

大坂の陣では外郭の櫓から大砲が終日発射されたといわれるが、これは敵の城内侵入を阻むためのものだった。当時は、攻城戦に多数の大砲を持ち込むことは不可能だったから、防御には有効だったといえる。日本の道はぬかるみやすかったから、大砲に車を付けることができず、足軽が数百キロもある重量の大砲をかついで戦場に運ばねばならなかった。

幕末になって洋式軍艦からの攻撃に対処すべく普請した台場(砲台)は、近代要塞だった。低層の石材やレンガ造りの砲台と土塁などの関連施設を、要衝に配置したのである。日本では、江戸幕府が一国一城令で城郭を整理したり、大型船舶や洋式軍艦の建造を禁じた結果、ヨーロッパのような城郭の要塞化は幕末を待たねばならなかった。

前回に登場した浦賀奉行所の与力・中島三郎助のように、洋式軍隊を建造したり台場を普請したり五稜郭に籠もったりと、幕府の危機に対応して幕臣たちは軍備の近代化に積極的に関与したのである。言うまでもないが、五角形の星形の縄張りをもつ五稜郭も、堡塁の先端から死角をなくすためのもので、洋式要塞の技術を投入したものである。

続いて、私たちは走水低砲台跡をめざした。そこに向かう途中の観音崎の先端には、灯明台つまり江戸時代の灯台が復原されていた。江戸時代初期の寛永年間に、海防のために全国規模で遠見番所と灯明台を配置したことは、牡鹿半島編でふれた。加えて、幕末には各藩が異国船来航に備えて台場を多数建設した。とりわけ江戸湾には、幕府の手によって集中的に設置されたのである。

走水低砲台跡は、観音崎の北に設置されたもので、カノン砲の砲座が4か所残存している。千代ヶ崎砲台より遥か早い明治18年に着工し、翌年に竣工している。日清・日露の二つの戦争に際して、江戸湾への敵軍の侵攻を意識して普請したものであった。ここには、砲台跡のみならず、兵舎や観測所そして小隊長掩壕など非常によく残存していた。

走水低砲台の遺構

走水低砲台の遺構

ペリーが上洛したのは、浦賀湾の南隣の久里浜だった。私たちは、続いて久里浜のペリー公園に向かった。

ペリー公園では、晴天のもと、上陸地に建立された立派な記念碑が輝いていた。ペリー記念館も併設されており、彼の人生が解説されていた。10人の子宝に恵まれたペリーであるが、日本への「遠征」が晩年の大きな任務だった。実は、来航時には体調が優れなかったようで、1858年3月4日にニューヨークで死去している。享年は63歳だった。

「海の関所」だった浦賀奉行所とその関係者の幕末の動きは、ペリー来航以降、多難を極め、箱館戦争まで続いたのである。江戸湾の入り口から、近代国家への動きがはじまったとみることも十分可能であろう。

文/藤田達生
昭和33年、愛媛県生まれ。三重大学教授。織豊期を中心に戦国時代から近世までを専門とする歴史学者。愛媛出版文化賞受賞。『天下統一』など著書多数。

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