奈良は日本の原型ともいうべき古代文化が発展した地である。「まほろば」と呼ばれた豊かさが今も息づき、奈良を歩くことで心の安寧を得る。華やいだ桜の季節もいいが、秋の奈良には静かな落ち着きがある。さあ大和路へ。
【暮秋の大和路散歩4】
宿場町・商業地として繁栄し400年の歴史が息づく町
奈良県の西南に位置する五條市は、古くより大和国と紀伊国を結ぶ交通の要衝として発達してきた。南北朝時代には、吉野から遁れた後村上天皇が五條の賀名生に南朝の本拠を置いたこともある。
現在の五條の基が作られたのは江戸幕府成立のすぐ後のこと。武将・松倉重政が幕府より大和五條藩を賜り城下町建設に着手した。今から約400年前のことである。松倉重政の治世は短く、慶長20年(1615)に五條は幕府の天領となり五條代官所が設置された。
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松倉時代からの民家が現存する五條の街歩きは、JR和歌山線の五条駅から始めよう。
駅から徒歩約15分の新町口近くにある栗山邸は、慶長12年の棟札が残っていて、建築年代が判る民家としては日本最古の家である。個人の住宅なので内部は非公開だが、外から見るだけで歴史の重さに圧倒される。
栗山邸から程近い新町通りは、江戸、明治、大正、昭和初期に建てられた町屋が並ぶ昔町だ。この懐かしい家並みは約1km続く。天領となってからの五條は、紀州街道の要所ということもあり、宿場町、商人町として発展していった。
町屋の構造を知るには「まちや館」に入るといい。ここは政治家木村篤太郎の生家で、江戸末期の建物だ。内部は鰻の寝床のように奥へと続き、通り土間が竃屋(台所)、中庭、離れ、蔵を繋つないでいる。2階に上がる箱階段も懐かしい。
離れ座敷が休憩所になっているので、散策の足休めにもいい。
もう一軒、内部を公開しているのが「まちなみ伝承館」だ。ここは明治から大正にかけての建築物。土間の黒光りする梁など、昔の木造建築の力強さが見てとれる。管理室に〈手術室〉の札が掲げてある。以前は医院だったのか。五條は医院と薬屋の多い町だ。これもかつて繁栄していた証だろう。
江戸時代は商業地として栄えた五條だが、現在は大和野菜の産地として、料理人、食道楽たちの評判を呼んでいる。その大和野菜の魅力を引き出して食膳に上げるのが、新町通りの『五條 源兵衛』だ。
『源兵衛』では地元契約農家と直接取引で、毎朝旬の野菜を仕入れる。その野菜は彩り豊かで、ほれぼれするほど瑞々しい。料理長は野菜と対話しながら料理を考えるという。田楽、唐揚げ、天ぷら、煮物。それぞれの野菜の香り、甘み、苦み、辛みを活かした品々は食べる者の舌を新鮮な驚きで包む。
『五條 源兵衛』から新町通りを西に向かって歩いて行くと、アーチ状の高架が見えてくる。五新鉄道跡である。
五新鉄道は明治末期に構想された。五條から紀州新宮まで紀伊半島を縦貫しようとしたが、計画は何度か頓挫し、着工されたのが昭和14年であった。しかし、戦争もあり、工事は中断を繰り返して、未完成のまま廃線となった。
五條が天領であったことは先に述べたが、その石高は8万石。中程度の藩に匹敵する。ここに江戸から代官が赴任して執務したが、藩と違い少人数であった。この無防備な代官所を幕末に尊王攘夷の志士が襲った。文久3年(1863)の天誅組の変だ。天誅組は「五條御政府」の看板を掲げた。近代初の革命政府であった。この組織はわずかひと月ほどで崩壊し、幻と消えてしまった。
史跡公園には天誅組の変で焼かれた長屋門を翌文治元年に再建したものが残り、そこが民俗資料館になっていて、天誅組資料が充実している。維新秘話にふれたい。
新町通りから吉野川の遊歩道に出る細道はいくつもある。町歩きをしつつ、時には川岸に出て光を映す川面を眺めたい。数年前まで簗場が仕掛けられ、10月中は落ち鮎漁が行なわれていたという。
以上、今回は奈良路の宿場町として栄えた歴史ある五條の古い街並みを散策した。時が止まったかのような昔ながらの街を、そぞろ歩いてみてはいかがだろうか。
※この記事は『サライ』本誌2016年11月号より転載しました。(取材・文/北吉洋一 撮影/小林禎弘)