取材・文/田中昭三 撮影/中田 昭
京都の中心部「洛中」の周辺に広がる「洛外」は、古くから景勝地として愛されてきた。京の歴史と伝統に詳しい井上章一さん(国際日本文化研究センター教授)に、その魅力を聞いた。
最近亡くなられた永六輔さん作詞の歌『女ひとり』を聴いたある京都人が、その出だしを聴いて「これは京都を知らない人間が作った歌だ」と言いました。
その京都人は、例えば代々祇園祭にかかわっているような京都の中心部、所謂「洛中」に住んでいます。彼らは、歌詞に出てくる大原も嵐山も全部郊外、つまり「洛外」であって京都じゃない、というわけです。
実は私自身、嵯峨で育ちました。歌の「嵐山、大覚寺」あたりでまさに洛外です。嵯峨はいまでこそ京都市右京区ですが、それ以前は京都府葛野郡でした。昔は言葉使いも洛中の京都弁とは少し違っていたようです。それであるとき、洛中育ちの先輩に確認したところ、こう答えられました。
「ぼくらが中学校ぐらいの頃は嵯峨の訛りをまねして、よう笑ったもんや」
驚くべき京都洛中人の中華思想ですね。
■市電の外周線が洛外の境界
しかしそうはいっても、平安京の時代から洛外は、そのすべてがとは言いませんが、景勝地でした。嵯峨天皇(786~842)は、嵯峨の大沢の池に離宮を造り、それが後に大覚寺となります。
近代では近衛文麿が嵐山に別荘・松籟庵を営みます。桂川を見渡す地にあって、いまは料亭になっています。南の伏見を見ますと、12世紀から14世紀にかけて、現在の竹田や下鳥羽一帯に広大な鳥羽離宮が営まれています。いまの城南宮の辺りです。
つまり、京都では都ができて以来、洛外がずっと観光の景勝地だった。ですからいまでも洛外にこそ、隠れた名勝地があるのです。
一体いつ頃から洛中・洛外という意識が生まれたのか、正確にはわかりませんが、ひとつは豊臣秀吉(1537~98)が築いた御土居(おどい。京の町の防衛・防水等のために築かれた南北約8.5km、東西約3.5㎞の土塁)の影響でしょうね。その後、御土居はほとんど取り壊されてしまいます。
すこし前の京都人たちは洛中・洛外の境界を、旧市電の外周線に置いていたのではないでしょうか。東大路、北大路、西大路、それに南の九条通を走っていたルートです。御土居に比べると、範囲はずいぶん広くなっています。
京都の市電は昭和53年に全廃されましたから、いまは旧市電にねざす洛中・洛外という区分けの意識はうすくなっていると思います。
私は30年ほど前から宇治に住んでいます。洛外のさらに外といってもいいところです。
数年前、宇治川沿いの一角に引っ越しました。ベランダからは宇治川の流れがよく見えます。その景色が、嵯峨の嵐山へと流れる大堰川(桂川の上流)に似ていて、大変気に入っています。
やはり私には、洛中よりも洛外に魅力を感じます。まだ洛外に足を延ばしたことがない人には、ぜひ訪れてみてほしいですね。
解説・井上章一さん(建築史家・61歳)
昭和30年、京都府生まれ。国際日本文化研究センター教授。建築史、意匠論などを通して日本文化を多角的に追求。昨年『京都ぎらい』を上梓、洛外育ちから見たユニークな京都論を展開。『霊柩車の誕生』『阪神タイガースの正体』等著書多数。
※この記事は『サライ』本誌2016年10月号より転載しました。(取材・文/田中昭三 撮影/中田 昭)