日本各地には多くの湧水がありますが、その中で、何故か名水と呼ばれる水があります。ただ、美味しいというだけではなく、その水が、多くの恵みをもたらし、人々の命に深く関わり、生活を支えてきたからに他ならないからでしょう。それぞれの名水からは、神秘の香りと響きが感じられます。

名水の由来を知ることは、即ち歴史を紐解くことであり、地域の文化を理解すること。名水に触れ、名水を口にすれば、もしかすると、古の人々の想いに辿り着くことができるかもしれません。

歴史ある水を訪ね古都を歩きます。

なんの変哲も無い普通の湧水が、何か特別な事象によって、固有の名が付き不思議な逸話や謂れと共に語り継がれるようになる。この事を、じっくりと考えてみると、実に奇妙な感じがします。「あの湧水は、とても美味しい」くらいでは、何百年ものあいだ語り継がれることはないように思います。

医学や科学が発達していなかった時代に「水を飲んだら病気が治った」とか「子供を授かった」となると、それは一大事であったことでしょう。その噂は、たちまち千里を走り広く知れ渡ったに違いありません。噂を聞きつけた人々が、近隣の町や村はもとより、遠方から水を求め押しかけたでしょう。

そうした謂れのある「名水」と言いますと、全国各地に残る弘法大師に纏わる名水を思い浮かべます。お大師さまに纏わる水は、民の難儀や苦しみを取り除いたという逸話が多く、永きに渡り語り継がれる所以であります。

全国各地に残る弘法大師ゆかりの名水

しかし、高貴な御方や権力者が愛飲した水となると、同じ名水と呼ばれていても、ちょっと違った見方ができます。
特定の人だけが、飲むことのできた水なわけですから“公益”という点では、“お大師さまの水”には及ばないと思いますが、いかがでしょう。

また、取り立てて特別な御利益や効能があったというわけでもありませんから、歴史的な価値としての意味合いの方が強いことになります。

そのように考えますと、名水というよりも「畏れおおい水」と呼ぶのが良いのかもしれませんね。今回の名水は、平安時代末期に朝日のごとく現れ、不遇の最期を遂げた武将に纏わる、稀有な謂れを持つ「弓の清水(ゆみのしょうず)」を取り上げご紹介いたします。

木曽義仲に纏わる名水「弓の清水」
木曽義仲に纏わる名水「弓の清水」

武勇に優れ、知略に長けた、木曽義仲という武将の生涯

「弓の清水」と名付けられた名水は、現在放送中のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にも登場した「木曽義仲」に纏わる水です。

木曽義仲といえば、源平合戦において華々しい活躍をした武将。その人物像は、武勇に優れ、戦場においては知略に長け、義に厚く情け深かったことを物語る逸話が数多く残されています。

そんな木曽義仲の生涯を簡単にご紹介しておきましょう。

木曽義仲の肖像画
木曽義仲の肖像画

木曽義仲は、清和(せいわ)源氏の嫡流・源為義(ためよし)の次子・義賢(よしかた)の次男として、関東の武蔵国秩父(=現在の埼玉県秩父市)に生まれます。父親の義賢は、頼朝と義経の父・源義朝(よしとも)の弟。したがって、義仲は頼朝と義経とは従兄弟ということになります。

義仲が2歳の時、父親・源義賢が従兄の源義平によって討たれ孤児となります。義仲も義平によって命を狙われますが、信濃国(=現在の長野県)の木曽へ落ち延び、信濃国府の権守であった中原兼遠の庇護を受け育てられます。

本名が「源義仲」であるにも関わらず、通称「木曽義仲」と呼ばれるのは、成人するまで木曽の山中で育ったことが由来です。

「倶利伽羅谷大合戦」勝川春亭画
「倶利伽羅谷大合戦」勝川春亭画

信濃の地で成人した義仲。治承4年(1180)4月に以仁王(もちひとおう)による令旨に応じて、信濃国の武士へ回状を廻して挙兵します。

翌年(1181)には、横田河原の戦いで大勝。寿永2年(1183)の越中国(富山県)倶利伽羅峠での戦いでも勝利、続いて越前篠原の戦い(加賀市)でも平家の大軍を打ち破ります。まさに破竹の勢いのまま、念願の上洛を果たします。

平家を都から追放した功績により、後白河法皇より無位無官から従五位下左馬頭(さまのかみ)越後守、ついで伊予守に任じられました。

しかし、都入りしてから義仲の人生に狂いが生じ始めます。武勇と軍略に優れた義仲でありましたが、政治手腕については未だ若輩の身、思うようには行かなかったようで、次第に後白河法皇と対立するようになります。

法皇は、義仲に西国の平氏討伐を命じ都から遠ざけます。その間に東国の頼朝を重用する動きを見せはじめます。そうした法皇の動きに不信感を募らせた義仲は、西国から帰還するや法皇を襲撃、幽閉し、みずから従四位下・征夷大将軍となり「旭(あさひ)将軍」と称しました。

しかし、暴挙ともいうべきこうした行動は、義仲の孤立化を招き、凋落へと突き進むことになりました。そして遂には、寿永3年(1184)正月、東国源氏の大軍に敗れ、北陸道へ落ちる途中で琵琶湖畔の粟津(あわづ)で、31歳の若さで討ち死します。

滋賀県大津市にある義仲寺の境内に葬られた木曽義仲の墓跡
滋賀県大津市にある義仲寺の境内に葬られた木曽義仲の墓跡

800年以上に渡り伝承される「弓の清水」に纏わる謂れ

富山県高岡市の市街地から南東へ約7キロの常国地区には源平合戦・般若野古戦場があります。そこには、木曽義仲に纏わる名水が湧き出しています。

「弓の清水」と名付けられた水は、2008年に環境省の「平成の名水100選」にも選定されております。名水に纏わるお話としては、とても稀有なものなので、ここで紹介しておきます。

伝承される「弓の清水」の謂れが描写された駒札
伝承される「弓の清水」の謂れが描写された駒札

寿永2年(1183)京を目指し進軍する木曽義仲の本隊は、般若野で別働隊の今井兼平軍と合流(今井兼平とは、木曽義仲四天王の一人)。

この時、戦闘と行軍に疲れた兵士たちは喉の渇きを訴えます。義仲が、地元の農夫・松原大助という者に飲用できる水場を尋ねたところ、大助なる者、義仲の馬の前に跪くや「ここに清き水がございます」と崖下の地面を指し示したというのです。

義仲は馬を降り「南無八幡大菩薩、我が平家の賊を滅ぼすことができるなら、泉よ、湧き出でよ」と祈念して弓で地面を突いたといいます。

すると驚くことに、その場所から清水が湧き出したそうです(※伝承されている逸話には「弓を射て矢が刺さった場所から」など諸説あります)。

義仲の祈念によって水を得た軍の士気は、大いに高まり倶利伽羅峠へと向け進軍したそうです。

源平合戦・般若野古戦場の石碑
源平合戦・般若野古戦場の石碑

今日になってもなお、こうした逸話が残っている背景には、木曽義仲という武将の人柄によるものと思われます。そのことを最もよく表す逸話が、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも描かれました。ご記憶の方も多いことでしょう。

鎌倉の源頼朝と覇権争いをする中、叔父2人(志田義広と源行家)の命を守るため嫡男・木曽義高を人質として頼朝へ差し出し、源氏同士の武力衝突を回避し和議を成立させています。

後に、頼朝の長女・大姫と婚約した義高ですが、父・義仲の死後、捉えられ斬首されてしまいます。我が子を人質に差し出してまで、家臣の窮地を救う義仲の姿に家臣たちは、きっと彼への忠誠を強く誓ったに違いありません。

弓を地面に差し込む木曽義仲像
弓を地面に差し込む木曽義仲像

義仲の死後、後世になっても彼の人柄、生き方に心酔した人物も多かったようです。その一人が、俳人の松尾芭蕉。彼もまた木曽義仲を尊敬した一人であったことが史実として残っています。

生前、芭蕉は墓所である義仲寺を度々訪れ「死後は義仲寺に埋葬して欲しい」と遺言します。その遺言により松尾芭蕉は、木曽義仲の墓の隣に葬られました。

松尾芭蕉翁の木造坐像
松尾芭蕉翁の木造坐像

「弓の清水」に纏わる木曽義仲の逸話が、真実であるか否かはともかく、800年以上にわたり伝承されていること自体が驚くべきことであります。

それは、時代、時代を生きてきた人々が、義に厚く情け深い生き方をした人間・木曽義仲のことを忘れまいとする気持ちの表れではないかと思いました。

歴史を振り返り、ひとつの時代を生き抜いた若き武将・木曽義仲を偲ぶ意味でも、一度「弓の清水」を訪ねてみては如何でしょうか?

所在地・アクセス

□ 弓の清水
住 所:富山県高岡市中田常国
鉄道・バス:JR北陸本線高岡駅から 車で約15分ほど
自動車:北陸自動車道 高岡ICから約20分ほど

取材・動画・撮影/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
ナレーション/小菅きらら
京都メディアライン:https://kyotomedialine.com Facebook

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