文・写真/御影実(オーストリア在住ライター/海外書き人クラブ)
ウィーン郊外の人気のハイキングコース、「ヴュステ」。「砂漠」を意味するこの土地は一見荒野に見えるが、17世紀の修道院の廃墟が随所に潜み、人々の生活の跡が残されている。
オーストリアには、このような廃墟修道院が数多く存在する。多数の修道院が18世紀末に突然解散させられた名残だ。なぜこのようなことが起きたのか? 路頭に迷った修道女・修道士たちの行方は? 生き残った修道院のその後は? オーストリアの修道院の多岐に渡る役割と、その運命を分けた皇帝の鶴の一声の謎を解く。
修道院廃墟を利用したハイキングコース
ウィーンから車で40分ほど南東に、「ヴュステ」という名の自然公園がある。106ヘクタールにも及ぶこの敷地は4.5キロメートルの古い石壁で囲まれていて、ハイキングコースが整備されている。ウィーンから人気の日帰りのお出かけ先だ。
この地は、新石器時代から青銅器時代、古代ローマ時代と継続的に人が生活していた名残が発掘されている、歴史ある土地だ。敷地内にあるシャーフェネック城址は、11世紀ごろからハンガリー貴族の所領で、その後もオーストリアとハンガリーの間で領地争いの場となった。
この地に1644年、皇帝フェルディナント三世の妻で、イタリア出身のエレオノーラが、跣足(せんそく)カルメル会の聖アンナ修道院を創立した。第二次ウィーン包囲に向かうトルコ軍の襲撃で一度焼失しているが、その後、教会や居住区、回廊を含む修道院の建物が再建されている。他にも敷地内には、七軒の瞑想用の隠遁小屋の他、乳製品加工場、果樹園、魚釣り用の池、石灰の石切り場や石灰窯等が併設され、自給自足の環境が整っていた。
カルメル会は隠遁系の修道会だ。清貧を教義とし、質素で静謐な生活の日々を世間とは隔絶された場所で行う。修道女たちはこの敷地内で外部との接触を避け、自給自足の生活を行いつつ、瞑想と祈りの日々を送っていた。
この場所は当初、ギリシャ語で「隠遁所」「砂漠」の両方の意味を持つeremos(エレモス)の名で呼ばれていた。この「砂漠」の方の意が独り立ちして独語訳され、砂漠とは無関係ながら、砂漠の意味を持つ「ヴュステ」が通称となった。
この修道院は、18世紀半ばに「女帝」マリア・テレジアが訪れて最盛期を迎えるが、18世紀後半に唐突に閉鎖に追い込まれる。そのきっかけが、皇帝ヨーゼフ二世が発令した「修道院解散令」だ。
ヨーゼフ二世の改革
「女帝」マリア・テレジアの後を継いだヨーゼフ二世は、啓蒙君主として知られている。ちょうどモーツァルトが故郷ザルツブルクから首都ウィーンへやってきて、活躍を始めた時代だ。
「国家の最も重要な目的は、臣下の幸福を最大限にすること」という理念の元、ヨーゼフ二世は農奴制を改革し、死刑を廃止し、宗教寛容政策を行った。一方でその改革は、急激に貴族や教会の権力を削り、国家による統制を増したため、「上からの革命」だとして批判も大きかった。
そんな「ヨーゼフ主義」の中でも、カトリック教会の改革は大きな議論を巻き起こした。
当時オーストリア帝国内には、二千を超える数の修道院に、約四万五千人の修道女・修道士が所属していた。修道会の活動内容は、祈りと労働を主に行う自給自足的な団体と、教育、医療、慈善等の院外活動を行うものに二分されるが、ヨーゼフ二世は、前者を「役に立たない」として、全て解散させることを決定したのだ。
即位から二年も経たない1782年には、500以上の修道院が閉鎖された。このうちの多くが、カプツィン会やカルメル会等、瞑想や隠遁を目的とした修道会だ。
これを知ったローマ教皇ピウス六世は、オーストリアのカトリック情勢に大きな懸念を抱き、歴史上初めてウィーンを訪問し、ヨーゼフ二世と会談する。ウィーンを訪問したローマ教皇は現在に至るまで三人しかいないことを考えると、非常に重要な会談であったことがわかる。
しかし教皇の説得もむなしく、翌年更に800の修道院が閉鎖される。1791年に解散予定だった450の修道院だけは、ヨーゼフ二世の死によって閉鎖を免れた。こうしてヨーゼフ二世の勅令で、既存の修道院のうち三分の二が閉鎖に追い込まれたことになる。
生き残った修道院も無傷ではいられなかった。カトリック教会の教区は再編成され、多くの権力や権威が失われた(例えば婚姻は宗教制度ではなく、国が管理する個人間の契約となった)。また、没収された資金は国が再配分し、聖職者の教育等に利用された。国が教会権力を管理することで、国民にその機能を還元するという崇高な目的は、教会内部から大きな反発にあったことは想像に難くない。
行き場を失った修道女・修道士たち
ヴュステ自然公園を歩き、約250年前にここで静かな自給自足の生活を送っていた修道女たちの生活を想像してみる。牛の乳を搾ってチーズを作り、果樹園で果物を収穫し、畑で収穫した小麦でパンを作る。衣服や建物の修理も、自らの手で行う生活。瞑想のための施設とはいえ、女性だけの閉じられた村のような共同体の世界だ。
生活基盤だった修道会が閉鎖され、放逐された修道女・修道士たちはその後どうなってしまったのか? とある修道会の場合、50人の修道女のうち7人は別の修道会に加入したが、残りは世俗に戻ったという記録もある。多くの修道女たちは、年若くして修道院に入り、何十年も外界と接触を避け、祈りと自給自足の生活を送ってきた。それが急に住処も居所も仲間も失い、見たことのない世俗の世界に放りだされたのだ。そのショックは想像を超える。
主を失った修道院の建物は、他の修道会やプロテスタント系宗派に転用されたものもあるが、放置され荒廃したものも多い。オーストリアの宗教建築の歴史上でも、この修道院解散令は、大半の教会や修道会に大きな影響や傷跡を残しているのだ。
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「役に立つ修道院」のみを選別し、それ以外を全て閉鎖する、「上からの改革者」ヨーゼフ二世の修道院解散令。生産性やコストパフォーマンスのみを基準に、一見実用性に乏しい修道院をリストラしたこの政策の、長期的評価は賛否両論だ。
荒野となり荒れ果てた「砂漠」の修道院跡地を歩くと、「実用性重視」の鶴の一声がかき消してしまった、瞑想と自給自足の日々の豊かさや、その精神的な遺産について考えさせられる。モーツァルトの時代の「合理化」には、現代との共通点も意外に多いのかもしれない。
文・写真/御影実
オーストリア・ウィーン在住フォトライター。世界45カ国を旅し、『るるぶ』『ララチッタ』(JTB出版社)、阪急交通社など、数々の旅行メディアにオーストリアの情報を提供、寄稿。海外書き人クラブ会員(https://www.kaigaikakibito.com/)。