まずは、敵対していた清須城の織田信友への対応として、岳父道三に居城那古野城の城番のための軍勢派遣を依頼した。道三はこれに応えて、重臣安藤守就ほか5人の家臣に兵千人を添えて送り込んだ。これに異議を唱えた林秀貞・美作守兄弟は、荒子の前田氏のもとに退去してしまった。
それをものともせず1月21日に出陣した信長は、翌日に大風で船頭たちが引き留めるにもかかわらず、熱田から出港した。居城を隣国勢力に明け渡して退路を断ち、強風のなか大敵に向かう信長の剛胆さを物語るシーンである。
『信長公記』は、「二十里(約80キロ)程のところを、ただ半時(1時間)ばかりで押し渡り、着岸した」と記す。時速80キロの高速艇に乗船した感覚からは、にわかには信じがたい。
ところで、この時の信長の航路が謎なのである。実際、熱田から村木城までは、直線距離にしてわずか15キロに過ぎない。しかし通路が今川方となっているので、それを大きく迂回したのだ。
距離に信を置くならば、わざわざ知多半島を廻って村木城付近で下船したとみられる。おそらく、村木城を見下ろすことができる要衝で信長陣所と伝わる現在の村木神社辺りで野営し、陣城を普請したのだろう。
信長は、翌1月23日に緒川に入城し水野信元と会談した。なお現在の緒川城跡は、土塁遺構の一部が残るのみとなっている。信元の異母妹で徳川家康の母於大が生まれたのも当城であり、それを示す石碑が建てられている。
翌朝、信長は信元を伴い村木城めざして出撃した。
村木神社辺りの陣所からは、村木城内が丸見えだったに違いない。信長自身、村木城の南側の広大な空堀付近で鉄炮を撃ちつつ陣頭指揮したが、強攻戦の末、城中の今川方が降参の意を伝えた。味方の被害も甚大だったので、信長はそれを承引する。
合戦後、信長が将兵の労をねぎらい戦勝の酒盛りをおこなった場所と伝わるのが「飯喰場(いくいば)」で、住宅街の中の公園になっている。『信長公記』には、「本陣に帰ってから、家臣の働きや負傷者・死者のこと、あれこれとなく語って、感涙を流した」と記すが、ここであろうか。
翌日、信長は陸路寺本城に向かい、城を攻め城下に火を放った後、那古野城に帰陣した。城番の安藤守就は、信長から礼を受けて美濃に帰還したのであるが、冒頭の道三の感想は、守就の復命に対するものだった。
本当に上述の通りだったとしたら、道三でなくとも「すさまじき男」と評しただろう。
文/藤田達生
昭和33年、愛媛県生まれ。三重大学教授。織豊期を中心に戦国時代から近世までを専門とする歴史学者。愛媛出版文化賞受賞。『天下統一』『明智光秀伝 本能寺の変に至る派閥力学』など著書多数。