取材・文/柿川鮎子 写真/木村圭司
日本犬らしい姿をした犬、というとどんなイメージを思い浮かべますか? 多くの人は渋谷駅の忠犬ハチ公のように耳が立って、尾が巻き上がった犬の姿を思い出すのではないでしょうか。
秋田、柴、甲斐、紀州、四国、北海道といった日本犬はどれも耳が立って、真っ黒な鼻とアーモンドの形をした黒い瞳が印象的です。どの犬種も姿かたちがよく似ていて、日本犬らしさを感じるスタイルをしています。
一方、海外、とくにドイツ原産の犬といえば、ジャーマン・シェパード、ダックスフンド、ポメラニアン、ボクサー、ミニチュア・ピンシャーなど、姿かたちが全く異なります。見た目のスタイルだけでは、ドイツの犬かどうか、わかりません。
これは犬を使って猟をするために、改良を重ねた結果です。穴熊や鳥など、それぞれの猟がしやすいように犬を掛け合わせ、作出してきました。
日本はマタギなど一部で狩猟は行われていたものの、基本的に農耕民族でした。犬を掛け合わせて作出してきた歴史がなく、犬の姿も大きく変わることなく、今に至っているため、日本犬の姿はどれも似ていると考えられています。
よく似た日本犬の中で、唯一、日本犬らしくない姿をした日本原産種が狆(ちん)です。狆は中国から朝鮮半島を経て日本に渡ってきた犬で、「続日本紀」(797年に完成)に「天平四(733)年 聖武天皇の御代 夏五月 新羅より蜀狗一頭を献上」という記録が残されており、この蜀狗が狆の基となった原種ではないか、という説が一般的です。
狆を特に愛した将軍が犬公方こと5代将軍徳川綱吉で、一時は200頭以上もの狆を飼育していました。狆を繁殖させて高く販売するブリーダーもいて、大名家や幕府など一部の特権階級だけが飼育できる憧れの犬種でした。
嘉永6(1853)年にペリーが来日した際、幕府はミヤコと名付けた狆を国の宝としてプレゼントしました。ペリーは狆を可愛がり、後年、明治政府の使節団が、この狆に会いに行ったエピソードが残されています(犬が変えた歴史|吉田松陰の運命を変えた横浜村の数頭の犬)。
イギリスの日本学者、バジル・ホール・チェンバレン(1850~1935年)はお雇い外国人として来日し、日本人の文化や風習などを書き残しました。日本人と犬に関する文章の中では、単に「犬」と書くのではなく、「犬と狆」と表現しています。
日本人にとって、犬というのは「犬と狆」であり、狆は犬として別格の扱いでした。当時の日本で最も身近にいた犬は飼い主のいない里犬であり、ペットとして飼育されていた狆は里犬とは別の貴重な愛玩犬でした。
1933年に発刊された「犬の世界地図」は西洋諸国で大人気の犬種図鑑でした。ここで日本の代表犬種として紹介されたのが狆です。当時はジャパニーズ・スパニエルという名称で広まっていました。日本を代表する犬種で、欧米の人々の間でも憧れの犬種だったのです。
日本人だけでなく世界中の人々を魅了した狆は、ふたたび愛玩犬として見直されるようになっています。奥座敷で猫と一緒に飼育されてきた歴史から、人に抱かれるのを嫌がらず、穏やかな気質をもつ個体が多く、飼育しやすい室内犬として、静かに注目を集めています。
文/柿川鮎子
明治大学政経学部卒、新聞社を経てフリー。東京都動物愛護推進委員、東京都動物園ボランティア、愛玩動物飼養管理士1級。著書に『動物病院119番』(文春新書)、『犬の名医さん100人』(小学館ムック)、『極楽お不妊物語』(河出書房新社)ほか。
写真/木村圭司