取材・文/柿川鮎子 写真/木村圭司
第九代平戸藩主の松浦清(まつらきよし、号は静山)は日光東照宮に行く道すがら、伊勢神宮にお参りに行く「参宮犬」と出会い、二日間、同行した出来事を、随筆集「甲子(かつし)夜話」に残しました。長距離移動の犬と旅をした、愛犬家の大名でした。
松浦ら一行が雷電宮という社で短時間の休息した後、出発したところ、どこからともなく赤犬が現れて、後をついて来たのです。首には「参宮」と書かれた板と、小銭もつけています。近くにいた人に犬について尋ねると、奥州白川の住民の代わりに伊勢神宮へ参った帰りだとか。自分も日光東照宮に参る途中であり、心を動かされた松浦は、次の日もずっと見守るようにお伊勢参り犬に同行しました。
■司馬遼太郎も信じなかった犬の伊勢参り
犬が人間に代わってお伊勢参りに行くなんて、とても信じられないと司馬遼太郎も「街道をゆく」で書いています。確かに現代の感覚では、犬が伊勢参りするには、無理があるような気がしますが、江戸時代中期以降はごく自然な形で、人々の間で犬の伊勢参りは信じられ、社会全体に受け入れられていました。南総里見八犬伝の著者・滝沢馬琴も、息子が街で参宮犬を見かけたと日記に書き残しました。
現在の様に個人で犬を所有するのではなく、地域で犬を見守り、「里犬(さといぬ)」という形で、不特定多数の人々の間で飼育されていた時代です。犬が長距離を移動し、それをサポートする人々がいても不思議ではありません。犬の首に下げる「参宮」と書かれた木札には代理を頼む人の住所・氏名が書かれていたので、松浦清のように同行して道を教えたり、水や食餌を与える人がいたのでしょう。
実際、受け入れ先の伊勢神宮でも、外宮神官、渡会重全(わたらいしげまさ)が「明和続後神異記」で、参宮してきた犬に御祓をくくりつけて帰したと記述しています。渡会はその後の犬の行方をきちんと取材しており、「蝋燭屋与兵衛の旅籠に泊まった」とか「道すがら、小銭を与える人が多くて、犬の邪魔になったので、銀貨に両替した人がいた」さらに、「首のお金は最後まで盗られなかった」と書いています。
松浦は同行したお伊勢参り犬に対して、「伊勢へと志すと聞けば 畜類であっても 我が下野国まで行きしまされる心かな 人にはこれ以下もいることだろうと独りうち笑みいくほどに」と敬意を示します。「自分も日光東照宮に行くけど、お伊勢参り犬、ホントに偉い心掛けだなあ、こういう犬よりひどい人間もいるよね」と書いた松浦の気持ちは、約200年以上経った現代の私達にも共感できるものでした。
■マルチな才能を発揮した松浦静山というひと
宝暦10(1760)年に生まれた松浦清は、肥前国平戸藩の第九代藩主で、号が静山。現在ではこの号の松浦静山という呼び名で知られています。15歳で藩主となり、財政難だった藩を立て直し、19歳で学校を建設して優秀な若い人材を発掘。心形刀流(しんぎょうとうりゅう)剣術の師範として後輩を指導しました。その足跡を調べれば調べるほど、天晴れな充実人生ぶりに圧倒されます。
実力派藩主で人望も厚く、長く藩政にとどまると期待されていたのに、46歳の時、あっさりと隠居してしまいます。その後、82歳で亡くなるまでコツコツと書いた「甲子夜話」は、
正篇100巻、続篇100巻、第三篇78巻、合計278巻の超大傑作となり、江戸後期を代表する随筆集となりました。
文政4年11月17日(1821年12月11日)、干支の最初の甲子の日の夜に書き始めたこの「甲子夜話」にはシーボルト事件や大塩平八郎の乱など、実際の事件に関する内容の他、犬のお伊勢参りなどの社会風俗、民話や妖怪に関する話題、自分の身に起きたあれこれを、自由闊達に書かれています。
■静山が書き残して今に伝わる名言
特に有名な記述は、織田信長、秀吉、家康の三人がホトトギスを鳴かせるためにどうするか、という詠み人知らずの川柳です。この「甲子夜話」に掲載された結果、現代まで受け継がれることができたとも言われています。
さらに静山は江戸の大盗賊・鼠小僧が大好きだったようで、犯罪の記録から処刑されるまでを「甲子夜話」で克明に記しています。江戸の大悪党ではありますが、頭ごなしに犯罪者を否定するのではなく、温かい筆致で、同情的に書き残しているのが印象的です。
また、静山が書いた剣術書「剣談」にも有名な文章があります。「勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし」です。元プロ野球監督・野村克也氏の名言としても知られています。ほかにも蘭学に興味をもち、地球儀を所有していたほか、肉筆浮世絵のコレクターとしても有名でした。
静山は家族にも恵まれ、子どもは男子17名、女子16名。孫の一人である中山慶子(よしこ)は、明治天皇の生母となりました。静山は明治天皇の曾祖父として悠々自適の人生を全うします。それもお伊勢参り犬に優しく同行したおかげでしょうか。愛犬家から見ると、静山の立派なたたずまいに惹かれた犬が、信頼できる人物と判断して、寄り添ったのではないかと思うのですが。
文/柿川鮎子
明治大学政経学部卒、新聞社を経てフリー。東京都動物愛護推進委員、東京都動物園ボランティア、愛玩動物飼養管理士1級。著書に『動物病院119番』(文春新書)、『犬の名医さん100人』(小学館ムック)、『極楽お不妊物語』(河出書房新社)ほか。
写真/木村圭司