文/晏生莉衣
英語圏で広がる「プロナウンスティッカー」とは?|米語辞典から学ぶ新しい英語(2)【世界が変わる異文化理解レッスン 基礎編31】世界中から多くの人々が訪れるTOKYO2020の開催が近づいてきました。楽しく有意義な国際交流が行われるよう願いを込めて、英語のトピックスや国際教養のエッセンスを紹介します。

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権威あるアメリカの辞典「メリアム・ウェブスター辞典」に「ノンバイナリーなthey」が加えられたことを、前回のレッスンで取り上げました。男性でも女性でもないという性自認を持つノンバイナリーな人を表す三人称単数形として使われる「they」です。同辞典はtheyに新たな語義を加えた理由について、「ノンバイナリーなtheyの使用は過去数十年で確実に広がってきており、これがすでに英語の一部であることは疑いの余地がない」と説明しています。

そしてこの「ノンバイナリーなthey」の具体的な例として、ソーシャルメディアのプロファイル(profile)やプロナウンスティッカー(pronoun sticker)での使用を挙げています。ソーシャルメディアのプロファイルというのは、フェイスブックやインスタグラムなどSNSの自己紹介欄のことですから日本人にもおなじみですが、「プロナウンスティッカー」とはなんのことか、おわかりになりますか? わかりやすくカタカナで表していますが、pronounは代名詞のこと、stickerは日本語ではなぜか「スティッカー」ではなく「ステッカー」と発音され、一般的に「シール」と呼ばれているもののことです。つまり、「代名詞ステッカー」「代名詞シール」というような意味になります。(ちなみにprofileも日本語では「プロフィール」とされますが、正しくは「プロファイル」に近い発音です。)

代名詞シールの目的

プロナウンスティッカーについては、同辞典では「カンファレンス用バッジに使われる」という例を出しています。外部の人々が集まる会議などでは、参加者の名前がわかるようにネームプレート(名札)が用意されていて、ID代わりに首から下げたり、胸につけたりすることがありますが、昨今の英語圏では、そのネームプレートに貼るための「プロナウンスティッカー」がいっしょに用意されていることが多くなっているのです。何のためかというと、たとえばディスカッションをする際、「XXさんが指摘されたように」「〇〇さんの発言について」などと言う場合、英語では、最初は名前を用いてもそのあとは、
“I think she is right.”
“I agree with him.”
“As he pointed out,”
“About her comment,”
というように、代名詞を使うのが普通です。しかし、ここからがポイントですが、その際に外見から判断して男性形や女性形の代名詞を他人に対して使うのはもはや時代遅れのマインドセットとされています。なぜなら、XXさんはトランスジェンダーで、外見は男性に見えても、実は女性なのかもしれません。〇〇さんはノンバイナリーなのかもしれません。普通の人が普通のこととして多様なアイデンティティの尊重を求める中、自分の思い込みで誰かを安易にheとかsheとか決めつけるのは正しいことではありません。

そうは言っても、他人の性自認などについては知るよしもありませんし、単刀直入に聞くのは無礼な感じがして気が引けてしまいます。そこでクリエィティブな対応策として登場したのが、数々の代名詞入りの「プロナウンスティッカー」です。各々の参加者自身が、自分に対して使ってほしい代名詞が書かれているスティッカーを選んでネームプレートに貼りつけて、「自分にはこの代名詞を使って下さい」と意思表示をするのです。参加者は互いにそのスティッカーを見て、誰かを代名詞で表す際にはそこに表示されている代名詞を使います。これが英語圏ではお決まりのことになってきているのです。

自分のアイデンティティを伝える

スティッカーの種類としては、従来のhe(him, his)、 she (her, hers)、そして、メリアム・ウェブスター辞典に加えられたノンバイナリーなthey(them, theirs)が基本的に用意されていますが、レッスン8で紹介したように、ジェンダー代名詞には“ey”, “E”, “ze, “xe ”, “zie”, “fae”など、数多いヴァラエティがあります。中には「ze, hir, hirsを使って下さい」というようにちょっと変わった組み合わせを希望する人もいますので、すべての代名詞に対応するのはむずかしいため、「私の代名詞については直接たずねて」という意向を示す “Ask”というスティッカーも創られています。

この「プロナウンスティッカー」の使用は会議に限ったことではありません。アメリカや英国ではこうしたスティッカーやバッジを取り入れる大学が増えており、学生による性自認を尊重し、スティッカーを学生証に貼って意思表示できるように学則で決めたり、奨励したりするのはめずらしいことではなくなってきています。さらに英国では、この春、ブライトンなどの市議会が公立中学校、高校でもこのスティッカーを導入することを決めました。企業の間でもこうした動きが広がっており、先日は世界的な大手通信サービス企業T-Mobileのアメリカ法人が、同ショップ店員にプロナウンスティッカーを自分のネームプレートに貼ることを許可すると発表して話題になっています。

以上、今回は、前回レッスンで取り上げた「ノンバイナリーなthey」の延長として、日本ではまだあまり知られていない「プロナウンスティッカー」を紹介しました。開催が迫りつつある東京オリンピック・パラリンピックでは、選手やスタッフのアイデンティティをリスペクトする方法としてこうしたスティッカーを希望者へ配布するという計画はあるのでしょうか。多様性の受容を理念にかかげている一大国際イヴェントですから、その取り組みが気になるところです。

文・晏生莉衣(Marii Anjo)
教育学博士。20年以上にわたり、海外で研究調査や国際協力活動に従事。途上国支援や国際教育に関するアドバイザリー、平和構築関連の研究等を行っている。

 

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