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人類と狂犬病の果てしない戦い|なぜ今、狂犬病予防なのか

取材・文/柿川鮎子 写真/木村圭司

人類と狂犬病の果てしない戦い|なぜ今、狂犬病予防なのか

犬の飼い主さんのお宅には、狂犬病予防接種のお知らせの葉書が届く頃でしょう。「今年の分はすでにすませた」という声も聞こえます。法律で定められた飼い主の義務とはいえ、面倒に感じる人は多いでしょう。日本にはもう無くなってしまった病気なので、予防接種の必要性を感じられない人もいるはずです。約4000年前から人間を苦しめてきた狂犬病を知ることで、予防接種に対する重要性を新たに認識していただけたらと思います。

■ハムラビ法典にも定められた狂犬病対策

狂犬病についての最も古い記録は、紀元前2000年頃まで遡ります。狂犬病の歴史は人類の歴史とともにありました。紀元前1930年頃に発令された、エシュヌンナ法典では狂犬病の犬の飼い主に対して、管理と罰金を定めています。飼育している犬が狂犬になったら、飼い主は罰金を支払うこと。さらに、その狂犬が人を襲って咬み、それが元で死に至った場合、飼い主が遺族に銀貨で罰金を支払うよう命じています。

古代バビロニアのハムラビ王 (在位紀元前1729~1686年)が定めた有名なハムラビ法典にも、狂犬病について定められていました。ハムラビ法典では狂犬に襲われて死に至った被害者や、犬の飼い主の加害者の身分によって、罰金や刑罰に違いを付けています。身分の低い奴隷は安く、貴族は高く定められていました。

 ハンムラビ法典は196・197条の「目には目を、歯には歯を」が有名

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紀元前300年代のギリシアでは、アリストテレス(紀元前384~322年)が狂犬病について述べた記録が残っています。アリストテレスはプラトンの弟子で、ソクラテス、プラトンとともに有名な哲学者の一人ですが、自然研究分野でも大活躍していました。「万学の祖」とも呼ばれていたアリストテレスは、狂犬病が動物からの咬み傷によって起きる病気であると書き残して、人々に注意を促しました。

狂犬病を「恐水病」と名付けたのはローマの医学者ケルスス(25~50年頃)でした。水を飲もうとすると、強い痙攣が起こって飲めなくなり、水を飲むことを恐れるため、ケルススは「恐水病」と名付けました。後年、音や風、光が感覚器官に刺激を与え、麻痺などを引き起こすので、「恐風病」と呼ばれていた時代もありました。ケルススは「医学論」の中で、咬傷部を焼く治療方法を提唱しています。

■猟犬を狂犬に変えた女神にちなんだ名前

狂犬病が今から4000年以上前から知られていたのにも関わらず、原因となるウイルスが初めて分離されたのはわずか100年前の19世紀の終わりでした。人類の歴史から見るとつい最近の出来事です。

細菌学者のロベルト・コッホ(1843~1910年)により、狂犬病が目に見えない病原微生物により引き起こされることが明らかになりました。1885年、ルイ・パスツール(1822~1895年)はジョセフ・マイスター(メイステル)少年に狂犬病ワクチンを接種して、発症を抑えることに成功。以後、狂犬病以外のワクチンの開発も、積極的に行いました。

1908年、コッホは北里柴三郎の招聘で来日、厳島神社などを観光

1908年、コッホは北里柴三郎の招聘で来日、厳島神社などを観光

コッホが明らかにした狂犬病のウイルスの名前が劇的です。ラブドウイルス科リッサウイルス属のレィビィスウイルスと、舌を噛みそうですが、この名前にも実に狂犬病らしい由来があります。ラブドウイルス科のラブドはギリシャ語の棒で、ウイルスの形状からつけられました。

リッサウイルス属のリッサは猟犬を狂犬にさせた女神の名前です。処女神アルテミスは水浴びしている姿を猟師アクタイオンに見られてしまいます。そこでアルテミスは猟師をシカに変えてしまい、さらにリッサに頼んで猟犬を狂わせてシカになったアクタイオンを襲い、殺して食べさせてしまうのです。リッサは実に狂犬病にふさわしい女神様でした。

レィビィスウイルスのレィビィスはサンスクリット語の「凶暴」という意味で、狂犬病を発症した肉食動物が狂暴化する様子を表していて、これもまた、狂犬病にピッタリです。

森の中で泉を見つけた猟師アクタイオン(右)は、そこが女神の水浴び場だとは知らなかった

森の中で泉を見つけた猟師アクタイオン(右)は、そこが女神の水浴び場だとは知らなかった

長い間、人々の命を奪い、ようやく手に入れた対処方法がワクチン接種による予防です。発症したら治療は難しく、致死率は100%。現在も新薬を開発中ですが、今世紀中には難しく、もしかすると私達人類は、未来永劫、狂犬病と付き合っていかなければならないかもしれません。

農林水産省の資料によると、現在でも狂犬病による死亡者数は毎年約55000人。清浄国は日本、英国、豪州、ニュージーランド、スカンジナビア半島の国々などごく一部です。そして、人への感染の99%が、犬の咬傷によるものでした。

日本は幸い、数少ない狂犬病・清浄国ですが、いつ広まるとも限りません。海を渡ってくるネズミやコウモリ、寄港した船から捨てられる野犬・猫などから、狂犬病が広まる恐れもあります。それを阻止してくれているのが、毎年、予防接種に協力している犬の飼い主さん達でした。飼い主さん一人一人の地味な努力が、日本を狂犬病から守ってくれています。

文/柿川鮎子
明治大学政経学部卒、新聞社を経てフリー。東京都動物愛護推進委員、東京都動物園ボランティア、愛玩動物飼養管理士1級。著書に『動物病院119番』(文春新書)、『犬の名医さん100人』(小学館ムック)、『極楽お不妊物語』(河出書房新社)ほか。

写真/木村圭司

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