現役時代、家で夕飯を食べた記憶がない
義夫さんはプライベートでは30歳のときに2歳年下の妻と結婚をする。バブル経済前夜だったという。
「妻はアメフト部のマネージャーで、大学時代から存在は知っており、可愛い子だとは思ってはいました。彼女が広告代理店に入ったことは知っていた。何かの飲み会で同席したときに、“この人と結婚するんだろうな”と直感したのです。半年交際し、妻から結婚への圧力をかけられ、腹を括りました」
当時、24歳で結婚することが「当たり前」だった時代だ。誰もが結婚し家庭を持つことが前提だった社会では、「24歳で結婚できなかった」女性は「売れ残り」というレッテルを貼られていた。女性の年齢をクリスマスケーキになぞらえていたのだ。
「今の常識ではありえない。でもそれが“普通”だった時代。当時、妻は28歳で、同居する親からのプレッシャーもあったそうです」
妻は女子大の附属高校から一浪して義夫さんと同じ大学に進学する。
「結婚を決めたのは、家庭環境が似ていることも大きい。お互いに東京近郊に住んでいる中小企業の子供で、教育熱心でリベラルな親に育てられている。私は中高一貫の進学校から“私大にしか入れなかった”という劣等感があり、妻も浪人している。コンプレックスが似ていたんです」
妻が28歳まで結婚しなかったのは、仕事が面白かったことと、釣り合う人がいなかったこと。
「私も妻も親が結婚相手を決めるほどの家でもなく、かといって誰でもいいわけではない。私は3人きょうだいの次男で妻は次女。私も何人かガールフレンドはいたんですが、目先の金にこだわったり、選ぶ食べ物が違ったりして、何かしっくりこなかった」
義夫さんも妻も「実家が太い」とはいえ、援助をされるほど太くはないことも似ていた。
「これまた当時の感覚なのですが、“長男が絶対”なんです。長男が全てを継承する文化が残っていたんです。だから、2番目の私たちはみそっかす。豪華披露宴が全盛だったのに、結婚式は神社のみ。新居も公団の賃貸マンションでしたから」
結婚1年目に妻は妊娠して会社を辞め、出産。その3年後に2人目が生まれる。
「30代はバブル最高潮の時代と重なり、ほとんど家に帰りませんでした。私の仕事は、学会や医療法人に行き、製品を売り込むこと。当時のスケジュールを思い出すと、福岡出張の翌日に、岡山に行き、福岡に戻って石川に行き、札幌から東京に帰るといったところ。現役時代、家で夕飯を食べた記憶がないんです」
子育てもノータッチ。妻は下の娘が小学校に進学すると仕事に復帰する。
「子供にとって私は、“たまに来るおじさん”といったところ。40代で管理職になると、家にいる時間は増えましたが、それにしたって週に3日ほど“家に泊まる”という感じでした」
仕事が人生の9割を占めていた人が定年退職するとどうなるのだろうか。
【ギターも写真も続かず、仕事以外に「喜びがない」……その2に続きます】
取材・文/沢木文
1976年東京都足立区生まれ。大学在学中よりファッション雑誌の編集に携わる。恋愛、結婚、出産などをテーマとした記事を担当。著書に『貧困女子のリアル』 『不倫女子のリアル』(ともに小学館新書)、『沼にはまる人々』(ポプラ社)がある。連載に、 教育雑誌『みんなの教育技術』(小学館)、Webサイト『現代ビジネス』(講談社)、『Domani.jp』(小学館)などがある。『女性セブン』(小学館)などにも寄稿している。