2人の息子は、僕の方が好き
並々ならぬパソコンへの知識と意欲を持って入社しても、クセが強めの性格から、閑職に追いやられてしまう。
「可能性を諦めた30歳あたりからの30年間は与えられた仕事をこなすという生活を続けました。私生活では29歳のときに、親戚に薦められた女性と結婚。このカミさんが変わった人で、見栄っ張りで自分だけを注目してほしい人だったんです。今の言葉でいうと“毒親育ち”。カミさんに言わせると、お義母さんが自分のことを全く顧みず生活をしていたから性格が捻じ曲がったと。結婚して“私は理想の母になる”といい、専業主婦になって、過保護かつ過干渉で息子2人を育てたんです」
義母は戦後民主主義の男女平等という教育を受けた第一世代だ。女性の給料が安く、一段も二段も低く見られた時代に、広告業界で職を得ていたという。
「義母は妊娠・出産が会社にバレたら退職させられると思ったそうです。結婚しないまま、カミさんを出産する直前まで働き、産後1週間で復帰。カミさんは祖母の手で育てられたというから、すごい時代ですよね。そんな時代もあったんですよ」
その反動で、妻は教育ママになった。文武両道で、息子2人にピアノ、英会話、水泳の習い事をさせ、手作りのお菓子を作った。息子たちはあるときから自分の母が過干渉であると気づき、支配の網目を逃れ、父・隆史さんのところに駆け込んできた。おそらく妻は満たされない気持ちを息子たちへの支配にぶつけていたのだろう。やり場のない気持ちは、夫へと向く。「どうして私を見てくれないの」とか「私のことなど愛していないのでしょ」などと隆史さんを責めた。
「僕も若かったから、そういうことを言われるとカチンときて、売り言葉に買い言葉で言い返す。でも、カミさんには勝てない。体も大きいですし、高校時代に薙刀部の主将だった人で、当時はママさんバレーのエースアタッカー。腕っぷしも互角だったから、夫婦で取っ組み合いのケンカをしたこともあります」
そのケンカは隆史さんがいつも負けていた。妻に腕をつかまれたり、叩かれたりして青あざだらけになっていたという。
「カミさんにもダメージは与えてやりましたけど、私が負けてしまう。手加減していないのに勝てなかったんです。だから、判官びいきというのか、息子2人は私の方に懐いていましたね。カミさんとは56歳のときに熟年離婚しました。下の息子が成人したら離婚するって決めていたんです。カミさんには家以外の金目のもの……貯金から何から何まで奪われ、すっからかんですよ」
当時、仕事のストレスと家庭のストレスで、頭髪はかなり寂しくなり、菓子や脂物を食べ続けていた。体重は80キロを超えていた。
「さらに役職定年になって、収入も減り、お金もない。危機感を覚え、妻の見栄で買った外車を売っぱらって、軽のバンにしました。妻が出ていけば、息子と3人の気ままな暮らしになるので、念願のシティバイク(自転車)も購入したんです」
お金はないというが、貯金がないだけで、一戸建てと社会人になった息子2人は家に残った。彼らは家に月5万を入れ、男3人の共同生活は楽しかったという。
「時間があるからフリマアプリでモノを売りまくっていたら、変な人に絡まれて、とても嫌な思いをしました。“チキショー”と言いながらネットを見ていたところ、長男から“お父さん、これからどうするの?”と言われたんです。長男は結婚して家を出ると言い、“今のお父さんは性格も悪くて、体形も醜いから相手の両親に会わせられない”と。親子だからズバッと言ったんでしょうね。そのときに、自分の中で何かが切り替わるように感じたんです」
【減量のためにデリバリー配達員になる……その2に続きます】
取材・文/沢木文
1976年東京都足立区生まれ。大学在学中よりファッション雑誌の編集に携わる。恋愛、結婚、出産などをテーマとした記事を担当。著書に『貧困女子のリアル』 『不倫女子のリアル』(ともに小学館新書)、『沼にはまる人々』(ポプラ社)がある。連載に、 教育雑誌『みんなの教育技術』(小学館)、Webサイト『現代ビジネス』(講談社)、『Domani.jp』(小学館)などがある。『女性セブン』(小学館)などにも寄稿している。