「孝行のしたい時分に親はなし」という言葉がある。『大辞泉』(小学館)によると、親が生きているうちに孝行しておけばよかったと後悔することだという。では親孝行とは何だろうか。一般的に旅行や食事に連れて行くことなどと言われているが、本当に親はそれを求めているのだろうか。
ここでは家族の問題を取材し続けるライター沢木文が、子供を持つ60〜70代にインタビューし、親子関係と、親孝行について紹介していく。
4代続いた和菓子屋をたたむまでの決断
東京都心のマンションに住む辰夫さん(70歳)は、曽祖父の時代から続く、和菓子屋を数年前にたたみ、現在は一人でゆとりある生活をしている。時々、シルバー人材センターで働いたり、長女の子育てのサポートをしているという。
「店を僕の代で終わらせたのは、娘2人には好きなことをさせたかったことに尽きます。自分が幼い頃から“お前は長男だから、和菓子屋になる”と言われ続け、それ以外の選択肢がなかったことを後から後悔しましたし、和菓子作りは重労働だから娘たちには絶対にさせたくなかったんです」
曽祖父が苦労して始め、不況や物資不足、時代の嗜好を乗り越えて続けてきた店を自分の代で辞める。その決断をするには、大変な力が要るのではないか。
「これでよかったんだろうか、と眠れなくなりました。餅米や砂糖、小豆を仕入れていたお店に“半年後に店をたたむ”と伝える日まで、1か月くらい三ノ輪にある先祖代々の墓に毎日のように行って、謝っていました。明治時代に店を開いたひいじいさん、じいさん、父に会わす顔がなくてね」
特に大正10(1921)年生まれの父には申し訳なかったという。父は幼い頃から和菓子作りが好きで、小学校の卒業後、すぐに店に入った。早朝から道具の手入れをして、餡を炊き続ける苦労話は何度も聞いた。
「成長期に小豆が入った重い袋を運び続けるうちに、膝が悪くなって、脚を引きずるようになってしまったんです。さらに、配達中の事故で骨折し、昔で適当な処置をしたんでしょうね。骨がうまくつながらず、右手の薬指と小指がまっすぐ伸びなくなってしまった。これにより、徴兵検査に落ちた。親しい友達がどんどん戦死して、物資不足で開店休業が強いられる中、父は指こそ曲がっていましたが、手先はとても器用で、びっくりするくらい美しい菓子を作った。“戦争が終わったら、こういう菓子を作りたい。みんなに腹一杯菓子を食べさせたい”と思い続けて、その構想を商品として出し続けたのです」
父は、24歳の時に終戦を迎える。東京大空襲も被災しているが、そのことについてはあまり話さなかったという。空襲で妹と母を亡くしているからだ。辰夫さんの店があった地域は、焼け野原になったところだ。記録を読むと、近くの川は水死体で埋め尽くされ、地下に避難した人は蒸し焼きのような状態で亡くなったとある。
「父は、降りかかってくる火の粉を振り払いながら、和菓子作りの道具を守ったと人伝に聞いている。だから、“ああ、辞めていいのかな”という思いはありました。後を継ぎたいという人もいたんだけれど、そこまで父が精魂を込めていたものを、よくわからない人に譲って、しっちゃかめっちゃかにされるのも嫌で、キッパリと閉めることにしました」
【高度経済成長期の受注増「1000円札を作っている」状態だった…次のページに続きます】