中学生の次男は不登校になり、家出を繰り返す
芳恵さんは、子育てをしながら、母親の店を手伝うという多忙な10年間を過ごしていた。
「23区内とはいえ、私の子供の頃は、畑も多く家もまばらだったのに、気がつけば、団地とアパートに囲まれていました。人口が増えれば、食べ物を売る母の店は忙しくなる。ごはんは炊いたそばから弁当とカレーが売れていきました。父も相変わらず仕事を続けており、次男が小学校を卒業するまで、息つく暇もないくらいでした」
昭和が終わったのは、次男が小学校6年生の頃だった。
「あれは1989年、昭和から平成になったと騒いでいるときに、夫が“気持ち悪い”と言って、トイレから出てこない。夫はお酒を飲んでも顔色が変わらないので、よく二日酔いになっていました。また、私の実家は広く、トイレが3つあるので、そのままほったらかしてしまったんですよね。さすがに1時間出てこないのはおかしいと、様子を見に行くと、トイレで倒れていた。救急車で病院に担ぎ込まれました」
脳内出血だった。夫は46歳と若かったこともあり、一命を取り留めるも、左半身に麻痺が残った。
「父の口ききでいい病院に転院し、とても辛いリハビリをしたそうです。とはいえ、従来のように仕事ができないので、会社を辞め、私と母の店を手伝うことに。その頃からヘルシー嗜好は高まっており、ご飯と油物だらけの母の弁当が売れ残ることが増えていた。カレーも“ご飯少なめで”と頼む人が増え、日本は変わったと思いました」
戦中・戦後で苦労した両親は、「腹一杯になってほしいから店をやっているのに、ご飯を減らせって、おかしな時代になったね」と言っていたという。
「90年代に、近くの工場が中国に移転することになり、いよいよ弁当が売れなくなった。両親が高齢になったこともあり、カレーと弁当屋を辞めて、スナックに業態変更したのです。これをアドバイスしてくれたのも父でした」
このとき、長男は20歳、長女は18歳で共に私立大学に通っていた。次男は地元の中学校に進学したが「めんどくさい」と登校をしない。この次男が芳恵さん一家の悩みの種となる。
「学校に行かず、ゲームをやっているならマシ。次男は家出するんです。当時、雑誌の文通コーナーに“ペンフレンド募集”みたいな読者ページがありました。個人情報なんて意識がない時代ですよ。文通で親しくなった子の家に行ってしまうんです。一番遠かったのは岡山県。警察から電話がかかってきて、迎えに行ったこともありました」
次男は、芳恵さん夫妻が叱ると「俺がこうなったのはお前らのせいだ」と怒鳴った。
「私たちが仕事優先で、子育てしなかったことをなじる。勉強に無知だとか、家が汚くて友達を呼べないとか、デキがいい兄と姉のことばかり優先しているとか、あらゆる罵詈雑言を吐かれ、私なんて我が子から“お前は死ね! 死んで俺にお詫びしろ!”とまで言われましたからね。今振り返ると笑い話ですが」
そんな次男に、夫は淡々と接した。夫は名門私立大学の夜間学部を主席で卒業している。
「最初は夫に対してひどい言葉で罵っていたのですが、中学3年生から人が変わったように勉強に打ち込み、夫が卒業した大学の附属高校に合格したんです。でもここからが試練の始まりでした」
【高校では、停学3回、ケンカと喫煙、風紀違反で呼び出される……その2に続きます】
取材・文/沢木文
1976年東京都足立区生まれ。大学在学中よりファッション雑誌の編集に携わる。恋愛、結婚、出産などをテーマとした記事を担当。著書に『貧困女子のリアル』 『不倫女子のリアル』(ともに小学館新書)、『沼にはまる人々』(ポプラ社)がある。連載に、 教育雑誌『みんなの教育技術』(小学館)、Webサイト『現代ビジネス』(講談社)、『Domani.jp』(小学館)などがある。『女性セブン』(小学館)などにも寄稿している。