赤飯弁当500個、和菓子300個という注文が続く
戦後数年は、物資不足や復興などもあり、商売の再開は難しかった。しかし、父は不屈の精神で和菓子作りに取り組んだ。
「砂糖不足で、砂糖が金の延べ棒くらいの価値があった時代もあったそうです。父は戦争が終わるとすぐに結婚し、私の母は立て続けに姉2人を産みます。この母が幼い頃から子守の奉公に出された苦労人で、“負けてたまるか”という気持ちが強く、商売がうまかった。父が作った和菓子を、人に売り込み続けたのです」
昭和29(1954)年に“末っ子長男”の辰夫さんが生まれる頃には、店は完全に再開していた。父の代からは住み込みの使用人や、集団就職で上京してきた人もいたという。
「早朝から道具の手入れをして、底冷えする工房で小豆を洗う重労働ですよ。だから、すぐに辞めていった。お金の持ち逃げもされたこともあったようですが、両親は何も言わずに、菓子を作って売り続けた」
もっとも商売が忙しかったのは、1960年代からバブルが弾けるまでだったという。
「あの頃はそこここに茶道の先生がいて、教室にお菓子を届けていました。大きな茶会が開催されると、1回300個のお茶菓子の注文があったりね。あとは、企業さんが株主総会だお花見だと、赤飯弁当の注文がありました。忙しい時は1日500個も作ったことがあるんですよ。祖父と両親、従業員2人の5人がかりで、作っても作っても終わらない。母が“1000円札を作っていると思え!”ってハッパをかけてね」
辰夫さんは専門学校を卒業し、父の知人の店で2年修業したあと、昭和51(1976)年に店に入った。
「その頃は、餡を作ったり、餅を作る機械が入っており、作業そのものは昔ほどきつくはなくなっていましたが、普通の仕事に比べれば重労働ですよ。母は商売っ気が強かったので、機械化に積極的でした。私が店を閉めたのは、母が1970年代に導入し、使い慣れた機械が壊れたこともあります。メーカーはとっくに廃業しており、修理するにも直しようがないんですから」
昭和時代は寺からの大口注文もあったという。
「法事も多く、そのたびに茶菓子を出していました。劇場にもお届けしていましたね。そういう大口の注文がどんどん減っていき、父も母も亡くなって、和菓子は世間から忘れられていった。というか、僕の店が忘れられた。昨日と同じ作業を繰り返し、新しい菓子を作らなかったから。父とは違い、熱意がなかったんです」
プライベートでは、辰夫さんは27歳の時に妻と結婚し、娘2人を授かっている。
「カミさんは中学校の時の同級生で同じ陸上部。学校帰りにかき氷やおでんを食べたりしていた。カミさんは一度、離婚をしており、出戻ってきたことは噂で知っていた。あれは6月の雨の日で、店は珍しくヒマだった。カミさんは何かの用事で、水羊羹を買いに来たんだよ。それで、うちの母が“あら、離婚したの。子供いないの。あらそう。うちの辰夫と一緒になんない?”って(笑)。むちゃくちゃな話なんだけど、カミさんは“いいですよ”って」
強い姑がいる末っ子長男の辰夫さんは、「俺には嫁の来手がない」と思っていたそうだ。
「だから嬉しいやらありがたいやら。カミさんには一生、頭が上がりませんでした」
妻は陽気で酒が好きだった。店を閉めて1年間、2人で旅行をするなど、自由な時間を謳歌していた。冬のある日、友人と酒を飲んで帰宅して、お風呂に入っている時に、亡くなった。
【店は閉め、妻は死去、娘たちは父・辰夫さんをどう支えたのか……その2に続きます】
取材・文/沢木文
1976年東京都足立区生まれ。大学在学中よりファッション雑誌の編集に携わる。恋愛、結婚、出産などをテーマとした記事を担当。著書に『貧困女子のリアル』 『不倫女子のリアル』(ともに小学館新書)、『沼にはまる人々』(ポプラ社)がある。連載に、 教育雑誌『みんなの教育技術』(小学館)、Webサイト『現代ビジネス』(講談社)、『Domani.jp』(小学館)などがある。『女性セブン』(小学館)などにも寄稿している。