被害が拡大する前に、店を閉めよう
夫が店に顔を出すようになり、常連の足は遠のいていった。
「ウチみたいな喫茶店は、“変わらない雰囲気”に常連さんが来てくれるのがウリ。それなのに、私の夫が座っていると、店の空気が変わり居心地が悪くなるんですよ。そして、きれい好きな夫は、古いマンガや観葉植物を捨てて、テーブルを磨き始めたんです。常連さんが置いた人形、大学教授がくれた著作なども捨てて、スッキリさせたんです」
洋子さんはかつてから仕入れの手間を惜しみ、飲食店向けの商社にコーヒー豆とパン、ドリンクの配達を頼んでいた。
「割高なんですけれど、自分で仕入れるのに比べて楽。7年前からずっと“みっちゃん”という若くてかわいい男の子が担当だったんです。みっちゃんは最初は高校を出たばっかりでガチガチだったのですが、いろいろ話すうちに打ち解けてくれたんです。最近は“ヨーコちゃん、ちわーっす”って来てくれるようになって、私も余ったパンでサンドイッチを作って渡したりしていたんです」
あるとき、たまたま洋子さんが買い物に行っている間に、みっちゃんは来た。運悪く店には夫がいた。夫は妻を“ちゃん付け”で呼ぶ配達員に激怒し、「それが客先に行く態度か?」と本人を叱り、本社にクレームを入れた。
「翌日から別の人が来て、私に対してすごくよそよそしい。何があったのかを聞いたら、“クレームがありまして、光原(みっちゃん)は配置換えになりました”と言われたんです。それで主人に聞いたら、“あ、俺が接客マナーを教えてやったんだ”って」
洋子さんは呆れるとともに、「この人は店に食い込んでくる。ちょっと早いけど、店を閉めよう」と決意した。
「コロナもありましたし、もう、潮時だろうなと。主人には何も言わず、廃業届を出して、店を閉めました。コロナだったからお別れ会もせず、休業の延長で閉めてしまったんです。このまま、主人に好き勝手されるんだったら、自分で抱えて潰してしまおうと。廃業届を出しに行くとき、『平家物語』で安徳天皇が祖母・二位尼に抱かれて入水するシーンがあるじゃないですか。あれと自分が重なりました」
定年後、夫に何らかのやりがいがあれば、店はもう少し続けることができた。
「そうですね。コロナもありましたし。でも、あの頃のことは後悔しているんです。というのも、夫は店がなくなると“あっそ”という感じで、興味の矛先が別に向かっていった。今は定年後の人材マッチング会社に登録して、地方の農場の技術アドバイザーとして嬉々として働いています。月5万円程度ですが、本人は楽しそうです」
今、店は別の人に貸してしまっており、再開することは難しい。今、洋子さんは長い時間を持て余しているという。
「65歳になると、アルバイト先も全然ないんです。先日、やっと介護施設の内定が出て、ホッとしました。どこでもいいから働いて、これからの人生を考えたいと思います」
洋子さん夫妻は、「どんなことがあっても、夫婦でいる」という姿勢を貫いている。それは、お互いに好きな仕事をしてきたからだろう。その2本の線が交わると、いい結果にならないことは喫茶店の1件から、お互いに学んだという。
定年後の長い人生、あえて距離を詰めないという夫婦関係で、穏やかに生きていくのだという。
取材・文/沢木文
1976年東京都足立区生まれ。大学在学中よりファッション雑誌の編集に携わる。恋愛、結婚、出産などをテーマとした記事を担当。著書に『貧困女子のリアル』 『不倫女子のリアル』(ともに小学館新書)、『沼にはまる人々』(ポプラ社)がある。連載に、 教育雑誌『みんなの教育技術』(小学館)、Webサイト『現代ビジネス』(講談社)、『Domani.jp』(小学館)などがある。『女性セブン』(小学館)などにも寄稿している。