文とイラスト・晏生莉衣
アメリカでバイデン大統領の新しい時代が始まりました。1月6日に首都ワシントンD.C.で起きた連邦議会乱入事件のあと、異例の厳戒態勢の中、無事に就任式が終了すると、米メディアは、報道陣が口々に「peaceful transfer of power(権力の平和的な移行)が行われた」とコメント。議会のドアや窓ガラスが割られて議員事務所が荒らされるといった破壊行為や、死者を出すほどの暴力行為が行われたにもかかわらず、平和的に権力が移行したというのにはどこか違和感がありましたが、新大統領の就任が暴力的に阻まれるようなことは起きてはならないという見守る側の思いや、実際にそのようなことが起こらず、なにごともなく就任式が終わり、新しい大統領が誕生したことへの安堵感が伝わってくるようでした。大統領選挙の結果をくつがえそうといういくつもの試みが退けられて、アメリカの民主主義が守られたというプライドのようなものも、同時に感じられました。
世界を騒がせたこの乱入事件で見て取れる深刻なアメリカ国民の分断という問題とともに、バイデン大統領が最優先課題としているのがCOVID-19(新型コロナウイルス)対策です。そして、バイデン新政権が感染防止に真剣に取り組む姿勢は、大統領就任式の時からすでに示されていました。新大統領夫妻をはじめ、就任式の場にいた全員がマスク着用で登場し、マスクをほとんどしなかったトランプ前大統領や周辺の人たちと比べると、その違いは一目瞭然でした。
流行させたのは注目の期待の星
その就任式会場で特に目を引いたのが、白いメディカルマスクの上に黒い布マスクを重ねていたある参加者の姿です。ダブルマスクで徹底的な感染対策を施したその人は、インディアナ州にある人口約10万人の小都市の市長という肩書で、若干37歳の時に民主党候補として大統領選に名乗りを上げて善戦し、一躍有名になったピート・ブティジェッジさん。
ブティジェッジさんはハーヴァード大学を卒業後、卓越した一握りの学生のみに与えられるローズスカラーシップ(ローズ奨学金)を受けてオックスフォード大学へも留学。大手コンサルティングファームのマッキンゼー勤務を経て、29歳で生まれ故郷のサウスベンドの市長となったという経歴の持ち主です。その経歴からきわめて頭脳明晰な人だということがわかりますが、アフガニスタンへの従軍経験もあり、さらに、同性愛者であることを公言しています。そんなユニークなブティジェッジさんですが、全国的にはまったくの無名で、名前も発音しにくいことから、大統領選で頭角を現して注目され始めると、わかりやすく“Mayor Pete”(ピート市長)と呼ばれることになりました。惜しまれつつ大統領選挙から撤退しましたが、バイデン次期大統領から運輸長官に指名されて再び注目を集め、先日、議会上院で任命が正式に承認されて運輸長官に就任しました。
このように、アメリカの未来を担う次世代のホープとして期待されているブティジェッジさんですが、バイデン大統領就任式会場では夫とともにダブルマスク姿で並んで座っているところがテレビ中継画面に映し出されました。その時は、2つの別々のマスクを重ねて使っているのか、一体構造の凝ったマスクをしているのか、映像からはよくわからなかったのですが、運輸長官指名承認の公聴会では、質疑応答を終えたブティジェッジさんが、退席する前にまず白いメディカルマスクを着けてから、さらに黒い布マスクを重ねて着ける様子が確認されました。
マスク断固拒否から2枚重ねまで
日本ではほとんどの不織布マスクは三層になっていますし、布マスクも多重レイヤーでウイルスを通さない加工がされているものが多く、マスクシートも販売されていますので、マスクの2枚重ねはそれほどトレンドとはなっていないようです。一方、アメリカではファッション重視もあって服装に合わせておしゃれな布マスクを選ぶのが人気ですが、ソーシャルディスタンスを保っていても多くの人との接触が起こる可能性のある機会には、多重レイヤーのマスク着用がより効果的なCOVID-19感染予防になるというのが常識になってきています。
そのため、布マスクだけだと不安という人が、もう一つマスクを着けるようになってきていて、ブティジェッジさんは鼻をすっぽり覆える高性能のメディカルマスクに布マスクを重ねるという方法で、しっかり感染予防を実践していたのですね。
前回、マスク着用を拒否するアメリカ人について取り上げましたが、個人の自由を訴えて頑なにマスクをしない人がいると思えば、違う種類のマスクを2つ重ねて徹底的に感染予防する人もいる。そうした対局のような存在が共存するのがアメリカの多様性とも言えます。
そして、ブディジェッジさんの存在は別の多様性も表現しています。首都の議会議事堂に暴徒が群を成して乱入する様子を目にして、「アメリカってこんな国?」と、その民意の表現法に驚いた方も多いと思いますが、ゲイで同性婚をしているブティジェッジさんが大統領候補となり、政権の一角を担うトップポジションに就くのもまた、アメリカです。上院の採決では賛成86票、反対13票と、民主党議員のみならず、多くの共和党議員からも歓迎を受けて承認されました。これに先駆けて承認された閣僚の中で実績や知名度がダントツに高く、初の女性財務長官となったジャネット・イエレン前FRB(連邦準備理事会)議長の承認が賛成84票、反対15票でしたから、ブティジェッジさんは、それを上回る賛成票を得たことになります。アメリカで同性愛者を公言する初の閣僚となったブティジェッジさんですが、バイデン大統領就任式直前に39歳になったばかりです。これまでも若さを武器にいくつもの業績を残してきましたが、今回はLGBTQのグラスシーリングを打ち砕くという新たな歴史を作りました。「ダイバーシティ」ということが言われて久しいですが、日本にはこうした多様性はまだありません。
大活躍した「消毒係」
もう1点、バイデン大統領就任式でCOVID-19感染対策ということから印象的だったのは、壇上のマイクの前で誰かが話し終わるたびに係の人が出てきて、次に話す人のために、マイクが置かれた演壇を除菌用ティッシュでしっかり拭いて消毒するという作業を繰り返していたことです。日本では深夜から始まった就任式を生中継の報道でご覧になっていた方は、コート姿できちんとした身なりの人がタイミングよくスーッと登場しては黙々と演壇のテーブルを拭いていたことにお気づきになったかもしれません。新政権がそうした地道な感染予防策を徹底して行う様子を、全米に、そして世界に向けて、就任式でして見せることでアピールする狙いがあったのだとしたら、これはかなり狙い通りにいったようで、「この清掃担当者こそヒーロー!」というツイッターが飛び交うことになりました。ちなみにこの消毒係の人もダブルマスクをして感染対策を取っていました。
CDC「エアロゾル感染を防ぐ効果が高い」
人気の高いブティジェッジさんのダブルマスク姿をきっかけに、マスクの2枚重ねについて米メディアが取り上げるようになりました。国立アレルギー感染症研究所所長で、長く米政府の感染症対策の助言を行ってきたアンソニー・ファウチ博士は、レイヤーを重ねることは感染対策として有効とし、CDC(Centers for Disease Control and Prevention: 疾病対策センター)も実験に着手。実験の結果、3層の医療処置用マスクを着用しても頬とマスクの間に隙間があるような場合、せきによるエアロゾル(空気中に浮遊する微細な粒子)の放出を56.1パーセントしかブロックできなかったのに対し、その上に3層のコットンの布マスクを重ねて着けた場合、85.4パーセントブロックできると発表しました。これは、せきによるエアロゾルの拡散をどれだけ防げるかを比較した実験で、顔とマスクの間にできる隙間を布マスクで上からふさぐことで、ウイルスを含む粒子の漏れを防ぐ効果が2倍以上高くなることがわかったのです。ダブルマスク着用で85パーセント以上防げれば、周囲の人をエアロゾル感染させてしまう可能性はかなり低くなります。
別の実験では、同様の方法でダブルマスクをしていれば、マスクをしていない人がせきをした場合に放出されるエアロゾルにさらされるリスクは83パーセント低減し、せきをする人とそれによるエアロゾルにさらされるリスクがある人のどちらもがダブルマスクをしていれば、リスクは96.4パーセント低減するという結果が報告されました。ダブルマスクはエアロゾル感染から自分を守る効果も高いということですね。CDCはまた、メディカルマスク1枚でも耳ひもを結ぶなどの調整をしてぴったりと顔にフィットさせる方法で着用すれば、ダブルマスクより劣るものの、感染予防に役立つとしています。(注)
今回のCDCの実験によって、ダブルマスキングは「うつさない、うつらない」というCOVID-19感染予防対策としてきわめて有効であることが実証されました。ブティジェッジさんはこうしたデータが出る以前からダブルマスク着用を実践し、その高い効果を世間に広めることに貢献したわけですから、さすがというか、新しいトレンドを作り出していく力を感じさせる人です。そのブティジェッジ新運輸長官、今月になって警護スタッフの1人にCOVID-19の陽性反応が出たため、規定にしたがって隔離されることになりましたが、ダブルマスクの防御もあって、ご自身は陰性ということです。
アメリカの新政権では、ブティジェッジさんだけでなく、バイデン大統領やハリス副大統領も折々、ダブルマスクをしていて、それぞれの工夫を凝らしたダブルマスキング方法に関心が寄せられています。
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バイデン大統領は公共交通機関利用の際などのマスク着用の義務化を進め、国民にマスクを配布するというアメリカ版「アベノマスク」のようなプランも浮上しています。ドイツやオーストリアでは、公共交通機関や店舗利用の際に特定種の高性能メディカルマスクの着用が義務付けられるようになりました。日本では義務化されていないものの、多くの人が日常的にマスクをして感染予防を実践しています。マスク着用一つをとってもそれぞれの国民性が現れてくるもので、国の方針も異なります。アプローチは違っても各国が平和的に協力を続けて、新型コロナウイルス問題が終息に向かうことを願うばかりです。
注: https://www.cdc.gov/mmwr/volumes/70/wr/mm7007e1.htm?s_cid=mm7007e1_w%20[cdc.gov]
文とイラスト・晏生莉衣(Marii Anjo)
教育学博士。20年以上にわたり、海外研究調査や国際協力活動に従事。平和構築関連の研究や国際交流・異文化理解に関するコンサルタントを行っている。近著に国際貢献を考える『他国防衛ミッション』(大学教育出版)。