文・写真/杉﨑行恭
第二次世界大戦の敗戦国となった日本は、戦後、一切の航空機の製造が禁じられた。大戦まではアメリカ・イギリス・ドイツという世界の航空大国と肩を並べようとしていた航空技術者たちの夢は、絶たれてしまった。
このとき行き場を失った優秀な航空技術者たちを受け入れたのが鉄道産業であった。技術的問題を数値化して解決するという航空テクノロジーが鉄道界に持ち込まれ、やがてあの新幹線へと結実していった。
昭和26年、日本はサンフランシスコ平和条約で主権を回復。日本航空もこの年に設立された。そして昭和31年に当時の通産省が旗振り役になって国産民間機計画がたちあがった。昭和34年には官民共同の日本航空機製造(NAMC)が設立され、本格的な航空機開発が始まった。
機体の基本的なコンセプトは、当時の国内に多かった1200m級滑走路で離着陸できること、航続距離は約1600㎞、60席以上の双発ターボプロップエンジンというものだった。開発には大戦中の大物技術者も参加し、いわばオールジャパン体制で開発が進んだ。
そしてYS-11の初飛行は昭和37(1962)年8月30日、初就航は昭和40(1965)4月1日の日本国内航空の羽田~徳島便だった。この頃の子どもたちにとって、新幹線とYS-11は乗り物界の二大スターだった。ビーンというターボプロップサウンドが聞こえると、庭に飛び出して見上げたものだった。
しかし実際のところは、旅客機としては出来の良いものではなく、頑丈さだけが取り柄のような飛行機だった。
当時の日本には、帝国陸海軍の軍用機を作った経験しかなかった。たとえば戦前の軍用機は雨の日は飛ばなかった。ところが戦後の民間旅客機は雨でも飛ばなければならない。初期のYS-11は雨漏りが問題だったという。
また、短距離離着陸性能を狙って大口径のプロペラを採用したが、その分エンジンが胴体から離れたため、安定性を確保するための垂直尾翼を大きくせざるをえなくなった。このため横風の影響を受けやすくなり、エンジンも非力だったため、操縦がきわめて難しい飛行機となった。
とはいえ昭和48(1973)年まで182機を生産、また欧米諸国へ初めて輸出した日本の旅客機となった。そして多数の機体が国内線で使われ、昭和末期にはどの空港もYSだらけという光景だった。この間、欠点を一つずつ解決していき、驚異的な就航率を記録したエアラインもあった。
YS-11は荷物室が後部ギャレーの裏にあり、機内アナウンスに預かった犬の鳴き声が入ったり、操作ツマミも「マニュキュアが剥がれやすい」とCAが嘆いたりと逸話の多い飛行機だった。
それでも巡航高度が3000mほどと低く地上の風景がよく見え、晴天時のフライトはすばらしい遊覧飛行になった。かつて筆者が丘珠~中標津便で見た雌阿寒岳の景観は、今でも忘れられない美しさだった。
派手さも美しさにも乏しく、実直そのものだったYS−11は、平成18(2006)年7月30日、日本エアコミューター沖永良部〜鹿児島便が定期航空路の最終フライトとなり、国内の路線から引退した。
YS-11はその後も自衛隊では輸送機として平成29年まで使われ、今では航空自衛隊入間基地に特殊用途で数機が在籍するのみとなった。海外に売却された機体は、その頑丈さをいかして、少数機が今でも現役という。
文・写真/杉﨑行恭
乗り物ジャンルのフォトライターとして時刻表や旅行雑誌を中心に活動。『百駅停車』(新潮社)『絶滅危惧駅舎』(二見書房)『異形のステーション』(交通新聞社)など駅関連の著作多数。