今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。

【今日のことば】
「愛顧の諸君子へ粗景呈上仕(つかまつ)り候」
--岩谷松平

えー、およそひと月ぶりの、おめもじ。本日も、一席おつきあいのほど、お願い申し上げます。

近頃、受動喫煙の法的規制に関する論議、なんてえのが、かまびすしいようですが、本日のお題は、明治の煙草王でございます。

えー、明治10年6月といいますから、時代はまさに西南戦争の真っ只中。ひとりの薩摩男児が上京して、開業まもない新橋駅頭に降り立ちました。男の名は岩谷松平(いわや・まつへい)。年は数えで39。背中にしょった大きな風呂敷包の中身は、ふるさと薩摩の名産品の数々でありました。

しばらく行商などして暮らしておりましたこの岩谷松平、ふた月ほどのち、財布の底をはたいて、洋館たちならぶ銀座通りに一軒の店を構えます。その折、新聞に自己宣伝の文句を掲げて曰く。

「私儀、今度鹿児島より御当地へ寄留し本日より店を銀座三丁目四番地に開き云々」

今でこそ開店セールの広告チラシなんざ当たり前ですが、この頃はまだこうした新聞広告は珍しい。その上、宣伝文を「愛顧の諸君子へ粗景呈上仕り候」と結んだ。オマケまでつけてお客さんを呼ぼうってえ商魂の逞しさです。

店の名は「薩摩屋」と名づけ、先主・島津家の○に十の字の紋までちょいと借用し、引き続き鹿児島の特産品を商って成功をおさめていったのでございます。

そんなある日、所用あって訪ねた横浜で、松平は偶然にあるものを見かけます。それは、舶来のシガレット、つまりは紙巻煙草を売る大道商人の姿でした。すぐにピンとくるものがあって、「これだ!」と手を打った松平、従前のキセルで吸うキザミ煙草に代わるものとして、紙巻煙草の製造販売を手がけようと決心いたします。

その意気込みたるや、並大抵ではない。自ら「城」と称する店舗を赤一色で塗りつぶし、中央には鼻高々の大天狗の看板。店名も「岩谷商会」に改め、売り出した煙草が「天狗煙草」でありました。20本入り5銭の「金天狗」から50本入り7銭の「小天狗」まで、種類も豊富で大いに売れ、得意の松平、自ら名乗るは「東洋煙草大王」。

全盛時の勢いはとどまるところを知らず、赤塗りの「城」の2階には20数人のお妾さんを囲ってたってエお話。一番末の子の名は五十二郎(いそじろう)といったそうで、一郎、二郎、三郎と、はしょることなく順につけたとすりゃあ、こいつはもうギネスものですな。「わが子の数を明治天皇に尋ねられ即答できなかった」と伝えられる松方正義公も真っ青の絶倫ぶりでしょう。

やがて時は流れ、明治37年2月。日露戦争が勃発し、政府は戦費調達のため煙草の専売制を導入します。従前から高い税金がかかるのもいとわず、材料も人手も純国産、舶来ものに対抗する愛国者をもって任じていた松平は、義侠心を発揮。雀の涙ほどのわずかな交付金で、「城」と40数か所の工場、370 余棟の倉庫、ならびに営業権をすっぱりと投げ打って、政府に譲り渡してしまいます。

こうして「煙草大王」の王冠を明治時代に置き忘れた松平は、余生を残った10人ほどのお妾さんの手をわずらわして過ごし、大正7年、ひっそりと往生したそうです。

ああ、岩谷松平。まさに明治の世を煙に巻きつつ消えていった、紫煙のような一生でありました。

さて、かくいう私も、ここらで高座から煙のごとく立ち消えて、楽屋で一服…。えっ、なんですって、今日から楽屋も禁煙。灰皿もないから煙草の灰の落としどころもない、と。いやはや、落語家だけに、落としていいのは噺ばかりです。

おあとが、よろしいようで。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。

 

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