音楽鑑賞が趣味、という人は多い。が、予備知識や蘊蓄を仕込むことに追われ、純粋に音楽を楽しめている人は案外少ないのではないか。音楽も、必ず言葉の支配を受けてしまうものなのだ。
歌の場合は、歌詞が具体的に場面を想起させる。例えばフォークソング『神田川』の「小さな石鹸カタカタ鳴った」などという私小説風の歌詞を聴けば、不安定な同棲生活を送ったことなどない聴き手であっても、それを追体験できてしまう。
歌詞なしのインストルメンタルでも、『蛍の光』を聴けばどこにいても「帰らねば」と気が急く。『仰げば尊し』を耳にすると、自身の学校生活が思い返される。
その最たるものが曲のタイトルだ。
以前、筆者が取材した小学校の音楽の時間では、曲名などの事前情報を与えず、「まずは自分だったらどんなタイトルをつけるか?」と考えさせる授業があった。面白い試みだと思った。美術にはよく『無題』と表記される作品があるが、音楽にはほぼそれがないからだ。
「音楽にタイトルがなかったら、ラジオで曲紹介する時に大変」というジョークを読んだことがあるが、作曲家自ら、あるいは評論家などが、楽曲に後から表題を付けることは多い。
有名なベートーヴェンのピアノソナタ『月光』も、本人がつけたタイトルは『幻想曲風ソナタ』。ところが、音楽評論家としても活躍した詩人レルシュタープがその第1楽章を聴き、「スイスのルツェルン湖の月光の波に揺らぐ小舟のよう」と喩えたので、作品自体が『月光』と呼ばれるようになったといわれる。
この楽曲タイトルづけは大人でも楽しめる。仮に既知の曲でも、付けられたタイトルを無視し、ただ曲とのみ向き合うと、自分なりのビジョンが立ち上がってくるのがわかる。
自らが新たに名づけようという気概で聴けば、おなじみの曲もずいぶん新鮮に響いてくる。そして、新たに名づけることで、それがすでに纏っている既製のイメージをいったん脱がすことができるのだ。
予備知識は、時に人をそこから先に踏み込ませなくさせる。それがなんであるにせよ、自身の感受性でいったん受け止めてから、周辺情報を確認したほうがよいのだ。
普段の音楽鑑賞でも、アルバムジャケットもライナーノーツも眺めず、ただ音に聴き入っていれば、他の情報に冒されていない、自分だけの音が聴こえてくるだろう。また絵画鑑賞であれば、ともかく先にじっくり絵画を眺めてから、表題と解説を読むようにすれば、自分なりの感じ方を優先できる。
まず無心に音や絵そのものを楽しみ、そこで想起される自身のイメージを大切にすると、情報は逆にしっかり頭に入ってくるのだ。これはすべてにおいて言えることだろう。
文・構成/鈴木隆祐
監修/前刀禎明
【参考図書】
『とらわれない発想法 あなたの中に眠っているアイデアが目を覚ます』
(前刀禎明・著、鈴木隆祐・監修、本体1600円+税、日本実業出版社)
http://www.njg.co.jp/book/9784534054609/