はじめに-室町幕府滅亡とはどのような出来事だったのか
天正元年(1573)、15代将軍・足利義昭が織田信長によって京都を追われ、足利将軍家による武家政権が名実ともに終わり、室町幕府は滅亡します。
室町幕府は、足利尊氏が新たな武家政権を築いて以来、およそ二百四十年にわたって続きました。その間、足利義満の時代には全盛期を迎え、公武の権力を大きく掌握したこともありましたが、応仁の乱以後は将軍権力が衰え、幕府の実態は大きく変わっていきます。
そして最後の将軍となった足利義昭の時代、幕府は織田信長との対立の中で終焉を迎えることになります。
室町幕府滅亡は、中世から次の時代へ移る大きな節目でもありました。この記事では、室町幕府滅亡の経緯について解説します。
なぜ室町幕府は滅亡したのか
室町幕府が滅亡した理由は、一つではありません。長い時間をかけて幕府の力が弱まり、最後に織田信長との対立によって決定的な終わりを迎えたと見るべきでしょう。
もともと室町幕府は、将軍を中心に有力守護大名が幕政を担う「連合政権」としての性格を持っていました。3代将軍足利義満のころにはその統制がよく行き届き、幕府は最盛期を迎えます。しかし、その後は将軍専制と守護大名の連合体制との矛盾が表面化し、嘉吉の乱や応仁の乱を経て、将軍権力は次第に形骸化していきました。

上御霊神社の森の合戦から応仁の乱は始まった。
応仁の乱以後、各地では戦国大名が台頭し、幕府の統制は畿内周辺に限られるようになります。それでも将軍の権威がただちに消え去ったわけではなく、地方大名の間ではなお足利将軍家の権威を重んじる動きが続いていました。
こうした中で登場したのが、15代将軍・足利義昭です。
義昭は兄・義輝が殺害されたあと各地を流転し、最終的に織田信長の助けを得て入京し、将軍に就きました。ところが、義昭は将軍就任後まもなく独自の政治行動を始め、信長と対立するようになります。
信長は義昭を擁立したものの、自らの軍事力と支配構想に従う存在として将軍を位置づけようとしました。一方の義昭は、将軍としての権威を背景に諸大名へ働きかけ、反信長勢力を結集しようとします。
この対立が深まった結果、天正元年(1573)に義昭は挙兵し、最後には槇島(まきしま)城に立てこもります。この戦いに敗れて京都を追われたことで、室町幕府は滅亡したのです。

つまり、室町幕府滅亡の直接の原因は足利義昭と織田信長の対立にありましたが、その背景には、長年にわたる幕府権力の衰退があったといえます。
関わった人物
室町幕府滅亡に関わった主な人物についてご紹介します。
【幕府方】
足利義昭

室町幕府15代将軍であり、最後の将軍です。織田信長の援助を受けて入京し、永禄11年(1568)に将軍となります。しかし将軍就任後は独自の政治行動をとり、やがて信長との対立を深めました。
槇島昭光(まきしま・あきみつ)
山城・槇島城の城主で、足利将軍家に仕えてきた奉公衆の一人です。天正元年、義昭が最後に立てこもった槇島城を支え、ともに城を退きました。槇島城は宇治川に囲まれた水城で、義昭が最後の拠点とした地です。
【織田方】
織田信長

義昭を奉じて入京し、幕府をいったん再興させた立役者。しかし、将軍権威を利用しつつ、自らの支配構想に従わない義昭とはやがて対立します。
信長は幕府を補佐する存在にとどまらず、結果として室町幕府を終わらせた人物でもあります。
【反信長勢力】
毛利輝元(もうり・てるもと)
中国地方の有力大名。義昭が幕府再興を目指す中で、大きな期待を寄せた相手でした。義昭は京都追放後も毛利氏を頼り、信長に対抗しようとします。
本願寺顕如(ほんがんじ・けんにょ)
石山本願寺の指導者です。義昭が反信長勢力を糾合する上で重要な存在でした。信長にとって本願寺は大きな脅威でもありました。
武田信玄

甲斐(現在の山梨県)の戦国大名。義昭は武田信玄とも連携を図り、反信長包囲網の一角として期待をかけました。
この事件の内容と結果
永禄11年(1568)、足利義昭は織田信長に奉じられて入京し、15代将軍となりました。これにより室町幕府はいったん再興された形になります。
しかし、両者の協力関係は長く続きませんでした。義昭は将軍として諸大名に命令や調停を行い、幕府の権威回復を図ります。一方、信長は義昭の政治行動を制限しようとし、両者の間には次第に亀裂が入ります。
元亀年間(1570〜)に入ると、義昭は浅井長政、朝倉義景、本願寺顕如、武田信玄、上杉謙信ら反信長勢力との結びつきを深め、信長包囲網の形成に努めました。
これに対し、信長は義昭への不信を強め、ついに天正元年(1573)4月、義昭に対して軍事行動を起こします。
いったんは講和が成立しましたが、義昭は同年7月、宇治の槇島城で再び挙兵。
槇島城は宇治川の中州に築かれた水城で、「これに過ぎたる御構えなし」と評されるほどの要害だったとされます。しかし、信長軍は宇治川を渡って城を攻め、槇島城はわずか一日で開城しました。
義昭は降伏したのち京都から追放され、河内(現在の大阪府南東部)・紀伊(現在の和歌山県全域と三重県南部)を経てのちに備後(現在の広島県東部)鞆へと移ります。
こうして、足利将軍家による室町幕府は、15代・およそ二百四十年で終わりを迎えました。
室町幕府滅亡後
義昭が京都を追われたことで、室町幕府は名実ともに滅亡しました。ただし、義昭自身はここで政治的に完全に終わったわけではありません。以後も毛利氏や本願寺、上杉氏などを頼り、幕府再興を目指して活動を続けます。
備後鞆に移った義昭は、なお将軍としての権威を背景に各地へ働きかけ、信長に対抗しようとしました。つまり、幕府は滅んでも、義昭の政治的影響力そのものはしばらく残っていたのです。
その後、本能寺の変によって信長が倒れると、義昭は再び巻き返しの機会を探りますが、幕府再興は実現しませんでした。やがて豊臣秀吉の時代になると、義昭は帰京し、出家して生涯を終えます。
室町幕府滅亡後、日本は織田信長、ついで豊臣秀吉、さらに徳川家康へと続く新しい権力の時代へ移っていきました。
その意味で、天正元年(1573)の義昭追放は、戦国時代の後半を画する大きな転換点だったといえるでしょう。
まとめ
室町幕府滅亡は、中世の武家政権が終わり、天下統一へ向かう新たな時代が本格的に始まる節目でした。
二百年以上続いた足利将軍家の歴史が終わったこの出来事は、日本史の大きな転換点として記憶されるべき事件だといえます。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/菅原喜子(京都メディアライン)
肖像画/ぐう(京都メディアライン)
HP:http://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『日本歴史地名大系』(平凡社)











