はじめに-「刀禰坂合戦」とはどのような戦いだったのか

「刀禰坂合戦(とねざかかっせん、「刀祢坂」と表記することも)」は、天正元年(1573)8月、織田信長軍が越前(現在の福井県北部)の戦国大名・朝倉義景の軍勢を追撃し、決定的に破った戦いです。

刀禰坂は、現在の福井県敦賀市刀根付近にあたります。東近江路と西近江路を結ぶ間道が通る交通の要衝で、古くから軍勢の移動にも関わる重要な場所でした。

この戦いは、単なる追撃戦ではありません。越前を100年余り支配した朝倉氏の滅亡を決定づけ、さらに朝倉氏を頼っていた美濃(現在の岐阜県南部)の旧国主・斎藤龍興もここで命を落としました。

刀禰坂合戦は、信長が浅井・朝倉勢力を一気に追い詰めていく流れの中で、極めて重要な意味を持つ戦いだったのです。

この記事では、「刀禰坂合戦」についてご紹介します。

大野市指定史跡 朝倉義景墓

刀禰坂合戦はなぜ起こったのか?

刀禰坂合戦の背景には、織田信長と朝倉義景の長年にわたる対立がありました。

朝倉氏は、もともと但馬国(現在の兵庫県北部)に出自を持ち、南北朝時代に越前へと入りました。応仁の乱のころ、朝倉孝景(あさくら・たかかげ)が主家である斯波氏の内紛に乗じて越前の支配権を握り、以後、義景の代まで五代、100年余りにわたって越前を統治しました。

義景は、足利義昭を一乗谷に迎えるなど、室町幕府再興をめぐる政局にも関わった大名でした。しかし、義昭を奉じて上洛したのは朝倉氏ではなく織田信長。以後、朝倉氏と信長の対立は深まっていきます。

元亀元年(1570)、信長は朝倉攻めを開始しますが、同盟者であった浅井長政が信長に背いたため、金ヶ崎の戦いが起こりました。以後、朝倉氏は浅井氏と結び、姉川合戦などで信長と戦い続けます。

しかし天正元年(1573)、信長は浅井・朝倉勢力への攻勢を強めました。義景は自ら近江へ出陣しますが、戦況は不利に傾きます。撤退する朝倉勢は、敦賀方面へ逃れる途中、刀禰坂で信長軍の追撃を受けました。

こうして、朝倉氏滅亡につながる刀禰坂合戦が起こったのです。

関わった人物

刀禰坂合戦に関わった主な人物についてご紹介します。

【朝倉方】

朝倉義景

朝倉義景
朝倉義景

越前の戦国大名で、朝倉氏最後の当主です。文化的素養に富み、一乗谷では詩歌や曲水の宴なども催しました。一方で、信長の台頭後は浅井長政や本願寺などと結んで反信長勢力の一角となります。

刀禰坂合戦で大敗したのち、一乗谷へ戻り、さらに大野へ逃れますが、最終的には自刃しました。

斎藤龍興

斎藤龍興
斎藤龍興

美濃の戦国大名・斎藤義龍の子です。織田信長に美濃を追われたのち、伊勢長島、摂津、近江を経て、越前の朝倉義景を頼りました。刀禰坂合戦で朝倉方として戦い、天正元年(1573)8月14日に敗死。享年26歳でした。

これにより、美濃斎藤氏は道三・義龍・龍興の三代で滅亡したことになります。

朝倉景鏡(あさくら・かげあきら)

朝倉景鏡
朝倉景鏡

朝倉氏の一族で、大野郡司です。刀禰坂合戦後、義景が大野へ逃れた際に頼ろうとした人物ですが、最終的に義景を見放しました。朝倉氏滅亡の局面で大きな意味を持つ人物です。

【織田方】

織田信長

織田信長
織田信長

尾張・美濃を基盤に勢力を拡大した戦国大名。朝倉義景とは足利義昭の上洛をめぐる政局以来、対立を深めました。天正元年(1573)には浅井・朝倉勢力を一気に攻略し、刀禰坂で朝倉軍を壊滅させたのち、越前へ進んで朝倉氏を滅ぼしました。

この戦いの内容と結果

天正元年(1573)8月、朝倉義景は浅井氏を支援するため自ら近江へ出陣しました。

しかし、織田軍の攻勢を受けて朝倉勢は敗走を重ねます。柳ヶ瀬に布陣していた朝倉勢は、疋田方面へ退く途中、刀禰坂で信長軍の追撃を受けました。

刀禰坂は東近江路と西近江路を結ぶ間道で、敦賀方面へ抜ける上で重要な地点でした。ここで追撃を受けた朝倉勢は大きな打撃を受け、戦力を立て直すことが難しくなります。

この戦いで、朝倉義景は決定的な敗北を喫しました。

また、朝倉氏を頼っていた斎藤龍興も敗死します。かつて美濃で信長と争った斎藤氏の最後の当主が、越前の地で朝倉氏と運命をともにしたことは、戦国の勢力図が大きく塗り替わっていたことを象徴しています。

刀禰坂合戦は、朝倉軍の敗走の一場面でありながら、朝倉氏滅亡を決定づけた合戦でした。

「刀禰坂合戦」その後

刀禰坂で敗れた朝倉義景は、一乗谷へと戻ります。

一乗谷は、朝倉氏が約100年にわたって築き上げた越前支配の本拠地であり、「越南の都」とも称された文化都市でした。谷には朝倉館を中心に武家屋敷や寺院、町屋が並び、京都文化を受け入れた華やかな都市空間が広がっていました。

一乗谷朝倉氏遺跡

しかし義景は、その一乗谷にとどまることができず、さらに大野へと落ち延びます。その後、8月18日、織田軍によって一乗谷は焼かれ、屋形や家臣の館、寺院などは灰燼に帰しました。

義景は大野で再起を図ろうとしますが、頼みとした朝倉景鏡や平泉寺にも見放されます。

そして天正元年(1573)8月20日、大野郡の賢松寺で自刃しました。これにより、越前を100年余り支配した朝倉氏は滅亡します。

朝倉氏の滅亡後、越前では一向一揆が蜂起しますが、やがて信長によって再平定され、織田政権の支配下に組み込まれていくことになります。

まとめ

刀禰坂合戦は、織田信長が朝倉義景を追い詰め、朝倉氏滅亡を決定づけた戦いです。この敗北によって義景は一乗谷を捨て、大野へ逃れますが、最終的には家臣にも見放され、自刃しました。

刀禰坂合戦は、朝倉氏の終焉であると同時に、信長が浅井・朝倉勢力を打ち崩し、天下統一へ向けて大きく前進した歴史的事件だったといえるでしょう。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

文/菅原喜子(京都メディアライン)
肖像画/ぐう(京都メディアライン)
写真/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
HP:http://kyotomedialine.com FB

引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『日本歴史地名大系』(平凡社)

 

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