貞信公(ていしんこう)の本名は藤原忠平(ふじわらのただひら)。関白太政大臣を務めた藤原基経(もとつね)の四男で、兄・時平(ときひら)、仲平(なかひら)とともに「三平(さんぺい)」と呼ばれていました。藤原北家の中でも有力な家系に生まれた忠平は、幼くして聡明さで知られていました。
醍醐(だいご)天皇、朱雀(すざく)天皇、村上天皇の三代にわたって補佐し、いわゆる摂関政治の基盤を確立した、まさに平安時代の政治を支えた大宰相でした。「貞信公」という名は、彼が亡くなった後に贈られた諡号(しごう)です。これは生前の功績や人柄を称える尊称であり、彼がいかに朝廷内で高く評価されていたかを示しています。

(提供:嵯峨嵐山文華館)
貞信公の百人一首「小倉山~」の全文と現代語訳
小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば 今ひとたびの みゆき待たなむ
【現代語訳】
小倉山の峰の紅葉の葉よ、もしあなたに心があるなら、もう一度だけ天皇の行幸を待っていてほしい。
『小倉百人一首』26番、『拾遺和歌集』1128番に収められています。この歌は、宇多上皇が小倉山の紅葉の美しさに心を打たれ、「醍醐天皇にもぜひ見せたい」と口にされたのを受けて、忠平が即興で詠んで奏上したといわれています。上皇と皇子(天皇)が同じ感動を分かち合いたいという、家族への深い愛情と、臣下としての機転が感じられます。
紅葉に「心があるなら」と擬人化し、まるで紅葉に語りかけるような表現が独特の情感を生んでいます。ここでの「みゆき」は、皇帝の行幸を指します。天皇が宮廷を離れて地方に赴くことは、盛大な行事でした。その際、沿道の風景が最も美しい季節であることが理想とされていたのです。
紅葉がまた美しく咲き誇る時間を「もう一度の行幸」までと限定し、儚さと美しさの対比を際立たせている点も注目です。

(提供:嵯峨嵐山文華館)
貞信公が詠んだ有名な和歌は?
貞信公が詠んだ他の歌を紹介します。

折りて見る かひもあるかな 梅の花 ふたたび春に 逢ふ心ちして
【現代語訳】
折ってみる甲斐もあることよ、この梅の花は。再び春のめでたい時に遇う気持がして。
『続後撰集』1030番に収められています。この歌は、貞信公こと藤原忠平が、兄・藤原仲平(枇杷左大臣)が初めて大臣になった喜びを詠んだ一首です。この時、忠平自身も既に摂政左大臣という最高位にありましたが、兄の昇進を心から祝っています。庭に咲く梅の花に「折って見る甲斐がある」と語りかけ、兄弟揃って高位に就けた喜びを「まるで再び春に巡り合ったようだ」と表現しました。
これは、藤原家の繁栄を心から喜び、兄弟の絆を大切にする忠平の温かい人柄が伝わる、誠におめでたい春の歌ですね。
貞信公、ゆかりの地
貞信公、ゆかりの地を紹介します。
法性寺(ほっしょうじ・ほうせいじ)
京都市東山区にある法性寺は貞信公が創建した藤原家の氏寺です。平安時代を通じて藤原家一門の厚い庇護を受け、特に忠平から八代目の末孫にあたる藤原忠通の時代には、京都でも指折りの名刹として「京洛二十一ヶ寺」の一つに数えられるほど繁栄を極めました。
しかし、応仁の乱をはじめとした戦乱で多くの建物や仏像が焼失。唯一難を免れた仏像は小堂に収められました。現在の本尊である千手観世音菩薩は、忠通が難病を患った際に祈願し、快癒したことから「厄除観世音」と呼ばれ、国宝にも指定されています。また、洛陽三十三所観音霊場の札所として、今も多くの人々の信仰を集めています。
最後に
「小倉山~」の歌は紅葉の美しさと、それを分かち合いたいという家族愛、そして移ろいゆくものへの想いが詠み込まれた一首です。貞信公は、宮廷を支える重鎮でありながら、自然の情感と人の情を深く感じ取る心の持ち主でもありました。
この歌を味わうとき、ご自身の人生で感じた「もう一度、あの美しい時間を」という切なる願いや、大切な人と共に過ごした秋の記憶が重なるのではないでしょうか。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『全文全訳古語辞典』(小学館)
『原色小倉百人一首』(文英堂)
アイキャッチ画像/『百人一首かるた』(提供:嵯峨嵐山文華館)
●執筆/武田さゆり

国家資格キャリアコンサルタント。中学高校国語科教諭、学校図書館司書教諭。現役教員の傍ら、子どもたちが自分らしく生きるためのキャリア教育推進活動を行う。趣味はテニスと読書。
●構成/京都メディアライン・https://kyotomedialine.com
●協力/嵯峨嵐山文華館

百人一首が生まれた小倉山を背にし、古来景勝地であった嵯峨嵐山に立地するミュージアム。百人一首の歴史を学べる常設展と、年に4回、日本画を中心にした企画展を開催しています。120畳の広々とした畳ギャラリーから眺める、大堰川に臨む景色はまさに日本画の世界のようです。
HP:https://www.samac.jp











