前大僧正行尊(さきのだいそうじょう ぎょうそん)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した高僧であり、同時に優れた歌人としても知られています。1055年に源基平の三男として生まれ、天皇の血を引く皇室と深い関わりを持つ家系でした。
12歳で出家し滋賀県大津市の園城寺(おんじょうじ)、通称「三井寺(みいでら)」にて密教を学び、多くの厳しい修行を経て高い徳を身につけたとされます。修行の中で詠まれた和歌は、その厳しさを反映し、深い情緒を帯びているものが多く、歌合にも招待されるほど腕前が評価されました。

(提供:嵯峨嵐山文華館)
目次
前大僧正行尊の百人一首「もろともに~」の全文と現代語訳
前大僧正行尊が詠んだ有名な和歌は?
前大僧正行尊、ゆかりの地
最後に
前大僧正行尊の百人一首「もろともに~」の全文と現代語訳
もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに 知る人もなし
【現代語訳】
私がお前をしみじみと愛しく思うように、お前もまた私のことをしみじみ愛しいと思ってくれ、山桜よ。花であるお前以外に心を知る人もいないのだから。
『小倉百人一首』66番、『金葉集』521番に収められています。『金葉集』の詞書には「大峰にて思ひがけず桜の花を見て詠める」とあります。この歌が詠まれたのは、行尊が大峯山で厳しい修行を行っていた時のこと。想像してみてください。俗世から遠く離れた深い山奥、そこには人の姿もなく、ただ厳しい自然が広がっています。その中で、行尊は孤独と向き合いながら、ひたすら仏道を求め続けていたのです。
そんな彼の目に映った一株の山桜。他に誰もいない深山で、ただ独り美しく咲き誇るその姿に、行尊は自身の孤独な姿を重ね合わせたのかもしれません。そして、まるで旧知の友に語りかけるように、山桜に対して「お前も私と同じように、この寂しさ、この趣を感じてくれないか」と呼びかけているのです。
この歌の最大の魅力は、山桜を擬人化し、心を通わせる「友」として捉え、語りかけている点にあります。「もろともに」は「一緒に」、「あはれと思へ」は「趣深いと感じてくれ、共感してくれ」という意味です。
自然物である山桜に、人間と同じ感情を共有してほしいと願うこの表現は、行尊の自然に対する深い愛情と、孤独感からくる切実な思いを感じさせます。

(提供:嵯峨嵐山文華館)
前大僧正行尊が詠んだ有名な和歌は?
行尊は、この百人一首の歌以外にも、自然や修行にまつわる歌を遺しています。二首、ご紹介しましょう。

あはれとて はぐくみたてし 古へは 世をそむけとも 思はざりけん
【現代語訳】
私を可愛がって育ててくれたその当時は、出家遁世するようにとは思いもしなかったでしょうに。
『新古今和歌集』1813番に収められています。詞書には「熊野へ参りて大峯へ入らむとて、年頃やしなひたてて侍りける乳母(めのと)の許に遣はしける」とあり、厳しい修行に入るときに会い、愛情深く育ててくれた乳母にあてて詠んだ歌です。
見し人は ひとりわが身に そはねども おくれぬものは 涙なりけり
【現代語訳】
一緒にいた人たちは皆去り、一人として私に連れ添う人はいなくなったけれども、そんな時も遅れずについてくるものは、涙だったよ。
『金葉集』576番に収められています。行尊だけが修行に熱心なあまり長居し、同行の修行者は一人また一人と去って行ってしまった様子を詠んだ歌です。
前大僧正行尊、ゆかりの地
前大僧正行尊のゆかりの地を紹介します。
園城寺(三井寺)
滋賀県大津市にある園城寺(三井寺)は行尊が出家し、生涯の多くを過ごした寺院です。天台寺門宗の総本山であり、国宝の金堂をはじめ、多くの文化財を有する名刹です。琵琶湖を望む美しい境内を散策すれば、若き日の行尊が仏道に励んだ姿や、晩年、静かに歌を詠んだであろう情景が目に浮かぶようです。
最後に
「もろともに~」の歌は、表面的な華やかさよりも、深い孤独の中にひそむ真の美しさや静けさに心を向けるものでした。現代に生きる私たちも、日々の忙しさの中で立ち止まり、自然の美しさに心を動かす瞬間を大切にしたいものです。スマホやパソコンの画面ばかり見つめる毎日から少し離れ、季節の移ろいや自然の営みに目を向けてみるのも良いでしょう。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『全文全訳古語辞典』(小学館)
『原色小倉百人一首』(文英堂)
アイキャッチ画像/『百人一首かるた』(提供:嵯峨嵐山文華館)
●執筆/武田さゆり

国家資格キャリアコンサルタント。中学高校国語科教諭、学校図書館司書教諭。現役教員の傍ら、子どもたちが自分らしく生きるためのキャリア教育推進活動を行う。趣味はテニスと読書。
●構成/京都メディアライン・https://kyotomedialine.com
●協力/嵯峨嵐山文華館

百人一首が生まれた小倉山を背にし、古来景勝地であった嵯峨嵐山に立地するミュージアム。百人一首の歴史を学べる常設展と、年に4回、日本画を中心にした企画展を開催しています。120畳の広々とした畳ギャラリーから眺める、大堰川に臨む景色はまさに日本画の世界のようです。
HP:https://www.samac.jp
