はじめに―藤原教通とはどのような人物だったのか
藤原教通(ふじわらののりみち)は、平安時代中期の公卿であり、関白として知られています。父は摂政太政大臣の藤原道長、母は源倫子(ともこ、または、りんし)であり、摂関家の有力な一員として政治の中枢を担いました。
教通は「大二条殿(だいにじょうどの)」と称され、その生涯を通じて高位高官を歴任しましたが、藤原氏の権勢が衰え始める転換期にも直面しました。そんな教通ですが、実際にはどのような人物だったのでしょう。史実をベースに紐解きます。
2024年NHK大河ドラマ『光る君へ』では、藤原道長の五男でわずか15歳で公卿に列する人物(演:姫子松柾、幼少期:吉田隼)として描かれます。
目次
はじめに-藤原教通はどのような人物だったのか
藤原教通が生きた時代
藤原教通の足跡と主な出来事
まとめ
藤原教通が生きた時代
教通が生きた平安時代中期は、藤原氏による摂関政治が最盛期を迎えつつも、その権力に陰りが見え始めた時代でした。父・藤原道長の時代は、朝廷において絶大な権力を誇っていました。
しかし、教通の晩年には後三条天皇の親政が始まり、藤原氏に対する抑圧政策がとられるなど、政治情勢が大きく変化していきました。
藤原教通の生涯と主な出来事
藤原教通は、長徳2年(996)に生まれ、承保2年(1075)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。
誕生と幼少期
長徳2年(996)または長徳3年(997)6月7日、教通は藤原道長と源倫子の三男として生まれました。母・倫子は左大臣源雅信の娘であり、教通は名門の血筋を受け継ぎ誕生します。寛弘3年(1006)に元服し、10歳前後で成人の儀式を行いました。
若年での昇進と公卿への道
寛弘7年(1010)、教通は15歳で従三位に叙せられ、その後も順調に昇進を重ねました。権中納言、権大納言を経て、治安元年(1021)には内大臣に任じられます。これは当時としても異例の早さの昇進であり、父・道長の強力な後押しがあったと考えられます。
『愚管抄(ぐかんしょう)』には、父・道長が教通を「ヨキ子」と評価していたことが記されています。
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