右大臣・左大臣への就任
永承2年(1047)、教通は右大臣に任じられ、康平3年(1060)には左大臣に昇進します。康平元年(1058)には従一位に叙せられており、名実ともに公卿の最高位に達しました。
関白への就任と藤原氏の権勢低下…
治暦4年(1068)、教通の娘・歓子(かんし)が後冷泉天皇の女御となり、立后します。これを契機に、兄・藤原頼通(よりみち)から関白の職を譲られました。しかし、そのわずか2日後に後冷泉天皇が崩御。藤原氏とは外戚関係のない後三条天皇が即位します。
後三条天皇は東宮時代、頼通からさまざまな圧力を受けていました。そのため、藤原氏に対する反感が強く、積極的に親政を行いました。このため、教通の関白としての実権は大きく削がれ、藤原氏の権勢が衰退する一因となったのです。
後三条天皇との対立
『続古事談(ぞくこじだん)』には、教通が藤原氏の氏寺である興福寺南円堂(なんえんどう)の造営を計画した際、大和国司の重任成功による財源確保を天皇に拒否されたため、藤原氏の公卿たちが朝議から退出したというエピソードが記されています。このことは、教通と後三条天皇の間に深い対立があったことを示しているといえるでしょう。
一方で、教通は後三条天皇との対立を避ける節もありました。そのためには、兄である頼通との対立も辞さなかったようです。
また、後朱雀・後冷泉天皇の両後宮に娘を入れていましたが、皇子は誕生しませんでした。このことも藤原氏の権勢が下り坂となる原因となったようです。
晩年と関白職の譲渡問題
延久元年(1069)、教通は左大臣を辞任し、翌年には太政大臣に任じられましたが、延久3年(1071)にこれも辞しています。
晩年、兄・頼通から自身が関白になったときの約束に基づき、関白職を頼通の嫡子・藤原師実(もろざね)に譲るよう求められました。しかし、教通はこれを拒否し続けました。教通は自身の嫡子である信長(のぶなが)に関白職を継がせたい意向があったともいわれています。
しかし、最終的に教通の死後、師実が関白に就任しました。
教通が残したもの
承保2年(1075)9月25日、教通は80歳(または79歳)で薨去。死後、正一位が追贈されています。彼は故実に通じており、日記『二東記(にとうき)』を残しました。
まとめ
藤原教通は、摂関家の有力者として高位高官を歴任しました。その一方で、教通は生涯を通じて藤原氏の栄華と衰退を目の当たりにすることにもなったのです。父・道長の庇護のもと順調に昇進を重ねましたが、後三条天皇の親政や藤原氏の外戚関係の希薄化により、関白としての権勢を振るうことはできませんでした。
彼の生涯は、平安時代中期の政治的転換期を象徴しているといえるのかもしれません。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/菅原喜子(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
HP:http://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『国史大事典』(吉川弘文館)