藤原義孝(よしたか)は、中古三十六歌仙の一人。摂政・藤原伊尹(これただ、謙徳公)の四男に生まれ、三蹟(さんせき)に数えられる藤原行成は義孝の長男です。『大鏡』によれば「末の世にもさるべき人や出でおはしましがたからむ(今後もこのような人は現れないだろう)」とほめたたえたほどの美男子でした。

また、『今昔物語集』によれば、幼少の頃から信仰心が篤く、魚鳥の類を口にすることがありませんでした。見目麗しく、心優しき貴公子は、21歳にして天然痘で亡くなります。その死は人々の同情を集め、和歌とともにさまざまな記録や伝説が残されました。

藤原義孝『百人一首画帖』より (提供:嵯峨嵐山文華館)
藤原義孝『百人一首画帖』より
(提供:嵯峨嵐山文華館)

目次
藤原義孝の百人一首「君がため~」の全文と現代語訳
藤原義孝が詠んだ有名な和歌は?
藤原義孝、ゆかりの地
最後に

藤原義孝の百人一首「君がため~」の全文と現代語訳

君がため 惜しからざりし 命さへ 長くもがなと 思ひけるかな

『小倉百人一首』50番に収録されています。とても有名な歌ですね。

現代語訳は「あなたのためなら惜しくはないと思っていた命までも、あなたにお逢いできた今となっては長くありたいと思うようになりましたよ」。

「君がため」は、あなたのため。「惜しい、もったいない」という意味の「惜しから」に、「〜でない」という打ち消しの助動詞「ず」の連用形である「ざり」が付いて、「惜しくはない」。「し」は過去を表す助動詞「き」の連体形ですので、「惜しからざりし」で「惜しくはなかった」「惜しいとは思わなかった」という意味になります。

「命さへ」の「さへ」は、「までも」。「長くもがな」の「もがな」は願望の終助詞で、「長くあってほしい」。末尾の「かな」は詠嘆の終助詞で、「思ひけるかな」は「思うようになりましたよ」という意味になります。

藤原義孝『百人一首画帖』より
(提供:嵯峨嵐山文華館)
藤原義孝『百人一首画帖』より
(提供:嵯峨嵐山文華館)

この和歌が誕生した背景

この和歌は『後拾遺和歌集』に収められていて、詞書(ことばがき)は「女のもとより帰りてつかはしける」。一夜を共にし、自宅に戻って一首したため、女性に贈った歌というわけです。こうした歌を「後朝(きぬぎぬ)の歌」といいます。なぜ「きぬぎぬ」かといえば、朝になり、それぞれが「きぬ(衣)」を着て別れるから。後朝の歌は男性が自宅に戻ってから、「後朝の使い」に持たせて女性に届けました。

契りを結ぶまでは「あなたのために命を捨ててもいい」と思っていたのが、一度の逢瀬で「あなたにまた逢うため命が惜しくなった」、と若い男性の心境の変化がストレートに表現されています。

藤原義孝が詠んだ有名な和歌は?

若くして没したこともあり、伝説化した義孝。死後に詠んだといわれる歌も伝えられています。

1:秋はなほ 夕まぐれこそ ただならね 荻の上風 はぎの下露

「秋はやはり夕暮れこそただならぬ風情がある。荻の上を吹いてゆく風といい、萩の下葉の露といい」

秋の夕暮れを詠んだ、代表的な一首とも称される和歌。『撰集抄』などによれば、藤原伊尹邸で連歌の催しがあり、「秋はなほ 夕まぐれこそ ただならね」の句が出されたのですが、一同、下の句を付けることに苦慮していました。

そこに進み出た義孝が、「萩の上風 はぎの下露」と詠み上げました。義孝は12歳頃。一同は感嘆の声を上げ、伊尹はおおいに喜んだといいます。

2: 夕まぐれ 木こしげき庭を ながめつつ 木の葉とともに おつる涙か

「薄暗い夕方、木が繁っている庭を眺めながら、散る木の葉とともに落ちる涙よ」

『詞花和歌集』に収められている、父が亡くなったときの哀傷歌。一条摂政といわれた伊尹は天禄3年(972)11月、義孝が18歳のときに没しました。

3:わびぬれば つれなし顔は つくれども 袂にかかる 雨のわびしさ

「辛いので素知らぬ表情に取り繕っているけれども、袂にかかる雨(涙)の侘しいことよ」

詞書は「堀川の中宮の内侍の簾の前に物言ふほどに、雨の降りかかれば、女のつげければ」。堀川の中宮とは、円融天皇の中宮・媓子(こうし)のことです。義孝は中宮の屋敷で女官を見初めたのでしょう。

4:しかばかり 契りし物を わたり川 かへるほどには 忘るべしやは

「あれほどに約束しましたのに、私が三途の川から戻ってくる間に忘れるなどということがあるのでしょうか」

『後拾遺和歌集』によると、義孝は臨終の場で、「私が亡くなってもしばらく納棺は待ってほしい。経を最後まで読みたいから」との遺言を妹(もしくは姉)に告げていました。にもかかわらず、妹(もしくは姉)は葬儀の準備を進めてしまったので、亡くなったその夜、母の夢に現れて、この歌を詠んだといいます。

5:時雨とは 千ぐさのはなぞ ちりまがふ なにふる里の 袖ぬらすらん

「時雨とは、さまざまな花々が散り乱れる様子のことです。どうして私の故郷では、袖を濡らして泣いているのですか」

『後拾遺和歌集』より。死の翌月、賀縁法師の夢に楽しげに笙(しょう)を吹く義孝が現れます。法師は、「母親はあなたのことを恋しがっていますのに、どうしてそんなに心地よさげなのでしょう」と問い、そのときに義孝が詠んだ和歌といいます。義孝は、極楽往生にいることを歌で伝えたのですね。

6:着てなれし 衣の袖も かわかぬに 別れし秋に なりにけるかな

「着なれた衣の袖もまだ乾かないのに、もう別れた気が巡ってきたのですね」

これは、死の翌年の秋、妹(もしくは姉)の夢に現れたときの和歌。しみじみとした思いを伝えています。

藤原義孝、ゆかりの地

義孝の足跡を感じられる場所を紹介しましょう。

1:世尊寺跡

現在の京都市大宮通一条上ルのあたりに、かつて桃園邸という屋敷があり、義孝の子・行成が受け継いで、世尊寺という寺院を建立。『今昔物語』によると、義孝は毎日のように世尊寺へ通い、極楽往生を願いました。

2:堀河院跡

京都市中京区に「堀河院跡」があります。もとは藤原基経(もとつね)の邸宅で、関白・兼通(かねみち)が改修。円融天皇のとき、内裏が焼失した際には里内裏になりました。円融天皇の中宮・媓子(こうし/てるこ)は兼通の娘であることから堀川(河)中宮といわれ、義孝は和歌を通して中宮と交流がありました。

最後に

多感な時期に父を亡くし、出家願望もあったといわれる藤原義孝の和歌には、厭世観のようなものが感じられます。
信仰心が篤く、心優しく、若くして亡くなった義孝だからこそ、人々は彼を惜しみ、死してなお見事な歌を詠んだという逸話が生まれたのでしょう。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

文/深井元惠(京都メディアライン)
HP: https://kyotomedialine.com FB
アイキャッチ画像/『百人一首かるた』(提供:嵯峨嵐山文華館)

●協力/嵯峨嵐山文華館

百人一首が生まれた小倉山を背にし、古来景勝地であった嵯峨嵐山に立地するミュージアム。百人一首の歴史を学べる常設展と、年に4回、日本画を中心にした企画展を開催しています。120畳の広々とした畳ギャラリーから眺める、大堰川に臨む景色はまさに日本画の世界のようです。
HP:https://www.samac.jp

 

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