藤原実方朝臣(さねかたあそん)は、『小倉百人一首』26番に和歌が収められている貞信公(ていしんこう/藤原忠平)のひ孫で、中古三十六歌仙の一人。花山天皇、一条天皇に仕えて従四位上・左中将に出世し、光源氏のモデルのともいわれる、イケメンの花形貴公子でした。

歌の才能にも容姿にも恵まれた藤原実方朝臣は、奔放な恋の歌を数多く残しています。

藤原実方朝臣『百人一首画帖』より
(提供:嵯峨嵐山文華館)

目次
藤原実方朝臣の百人一首「かくとだに~」の全文と現代語訳
藤原実方朝臣が詠んだ有名な和歌は?
藤原実方朝臣、ゆかりの地
最後に

藤原実方朝臣の百人一首「かくとだに~」の全文と現代語訳

藤原実方朝臣の詠んだ熱い恋の歌が、

かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな もゆる思ひを

『小倉百人一首』51番に収められています。現代語訳は、「このようにお慕いしていることさえ、あなたに言うことができません。伊吹山のさしも草ではありませんが、あなたは、これほどまでとはご存じないでしょう。私のこの燃える思いを」。

「かくとだに」の「かく」は「このように」、「だに」は「~すら」「~さえ」ですので、この歌の場合は、「このようにお慕いしていることさえ」という意味になります。

「えやは」の、「え」は動詞「得(う)」の連用形が副詞化したもので、反語の係助詞「やは」に続くことで不可能な様子を表します。「えやは~いう」で言うことができないになりますが、ここでは言うを「伊吹(いぶき)」の「いふ」に掛けています。つまり、「えやはいぶき」で、「言うことができない」となるわけです。

ちなみに伊吹山は、滋賀県と岐阜県の県境にそびえる山です。さしも草とはよもぎのことで、伊吹山はその産地。お灸に使うもぐさの原料とされてきました。

さらに、「さしも知らじな」の「さ」は指示、「しも」は強意の助詞。「知らじな」の「な」は感嘆ですから、全体で「これほどとは知らないでしょう」となります。

「思ひ」の「ひ」に「火」を掛け、技巧を凝らしつつ、燃える思いをストレートに伝えているこの和歌。同じ言葉を重ねることで流れるような響きが感じられます。

藤原実方朝臣『百人一首画帖』より
(提供:嵯峨嵐山文華館)

この和歌が誕生した背景

『後拾遺和歌集』の詞書に、「女にはじめてつかはしける」(女に初めて文を送る)とあり、初恋の歌ともいわれています。実方は、長徳元年(995)正月に陸奥守として東北地方に赴任。3年後に当地で亡くなりますが、生前には交際相手は20人を超えていたとも伝えられ、清少納言との恋愛もよく知られています。

この初恋の女性は誰なのか不明ながら、「清少納言かも?」などと想像を巡らせるのも楽しいですね。

この恋に、実方の心は本当に燃えたていたようです。「おなじ人へ」との詞書のもと、次のような歌が『新古今和歌集』に残されています。

あけがたき 二見の浦に よる浪の 袖のみ濡れて おきつ島人
「なかなか夜が明けない二見の浦に寄せる波に、袖を濡らして起きている島人のように、あなたが戸を開けてくれないので私も袖ばかりを濡らしています(泣いています)」

藤原実方朝臣が詠んだ有名な和歌は?

実方は、恋の歌や贈答歌を数多く残しました。その代表的なものを紹介しましょう。

1:忘れずよ また忘れずよ 瓦屋の 下たくけぶり 下むせびつつ

「あなたのことは忘れないよ、返す返すも忘れないよ。瓦を焼く屋根の下で煙にむせぶように、密かに恋の涙にむせびながら」

この歌を贈った相手は、清少納言です。『実方朝臣集』には、

清少納言とて元輔がむすめ宮にさぶらふを
   (中略)
いかなる折にか久しく訪れぬを
おほぞうにて物など争ふを
女さしよりて忘れたまへなよといへば
いらへはせでたち帰り

とあります。つまり、清少納言のもとを長らく訪問しなかったことで口喧嘩になり、女(清少納言)のほうから「忘れないでね」と言ってきた、というわけです。

2:見むといひし 人ははかなく 消えにしを  ひとり露けき 秋の花かな

「一緒に紅葉見物に行こうと言い交わした人ははかなくこの世から消えてしまい、私は一人露に濡れる秋の花のように泣いています」

『後拾遺和歌集』より。多くの友人にも恵まれた実方。中でも藤原道信(みちのぶ)とは親友だったといわれます。この歌は、正暦5年(994)亡くなった道信へ向けた歌です。

3:とどまらむ ことは心に かなへども いかにかせまし 秋の誘ふを

「都に留まることは願うところですが、どうすればよいのでしょう、秋が一緒に去って行こうと誘うのを」

『新古今和歌集』より。陸奥守に任ぜられた時、友人の藤原隆家(たかいえ)から贈られた送別の歌への返歌です。

ちなみに隆家の送別の歌は、
別れ路は いつもなげきの たえせぬに いとどかなしき 秋の夕暮
「別れはいつも嘆きの絶えないものですが、いっそう悲しい秋の夕暮れです」

藤原実方朝臣、ゆかりの地

華やかな宮中暮らしから一転、奥州で悲運の最期を遂げた藤原実方。実方ゆかりの地には、彼をしのぶ人々の思いが込められているようです。

1:中将藤原実方朝臣の墓

宮城県名取市。ある日、実方は名取笠島道祖神前を通る時に、馬から降りるべきところをそのまま通ってしまい、神罰が下って落馬。当地にて亡くなったと伝えられています。

文治2年(1186)、ここを訪れた西行法師は「朽ちもせぬ その名ばかりを 留めおきて 枯野のすすき かたみにぞ見る」の歌を残し、お墓のそばにはその歌碑が立っています。また、松尾芭蕉は雨で道が悪く墓に辿り着けませんでしたが、「笠島は いずこ五月の ぬかり道」との一句を手向けました。

2:橋本神社(上賀茂神社境内)

上賀茂神社末社の橋本神社は、衣通姫神(そとおりひめのかみ)とともに、実方を合祀していると伝えられます。吉田兼好は徒然草の中で、「賀茂の岩本・橋本は、業平・実方なり」に続けて、人がいつも混同するので宮司に確かめところ、「実方は、御手洗に影の映りける所と侍れば、橋本や」(実方が亡くなったあとに、その霊が御手洗川に映ったといいますから、橋本のほうでしょう)と言ったと記しています。

3:更雀寺(きょうしゃくじ)

京都市左京区静市(しずいち)にある、別名「すずめの寺」。境内の五輪石塔(雀塚)は、奥州で亡くなった実方が雀となって京へ戻ったので、その霊を祀ったものといわれています。

最後に

遠く東北にある藤原実方のお墓に、西行法師や松尾芭蕉はわざわざ足を運びました。それは実方が優れた歌人であったことの何よりの証しといえるでしょう。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

文/深井元惠(京都メディアライン)
HP: https://kyotomedialine.com FB
アイキャッチ画像/『百人一首かるた』(提供:嵯峨嵐山文華館)

●協力/嵯峨嵐山文華館

百人一首が生まれた小倉山を背にし、古来景勝地であった嵯峨嵐山に立地するミュージアム。百人一首の歴史を学べる常設展と、年に4回、日本画を中心にした企画展を開催しています。120畳の広々とした畳ギャラリーから眺める、大堰川に臨む景色はまさに日本画の世界のようです。
HP:https://www.samac.jp

 

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