歌人・大弐三位としても活躍、恋多き生涯
さて、大弐三位こと藤原賢子は歌人、そして恋多き女性でもありました。よく知られるところでは、道長の次男・頼宗(よりむね)、藤原公任(きんとう)の長男・定頼(さだより)も賢子を愛したといわれています。特に定頼とは多くの和歌の応答があり、『新古今和歌集』には、以下のような贈答歌も収められています。
見ぬ人に よそへて見つる 梅の花 散りなんのちの なぐさめぞなき
(逢えないあなたの代わりに見てきた、この梅の花。散ってしまったら、何の慰めもありません)
中納言定頼
春ごとに 心をしむる 花の枝(え)に たがなほざりの 袖かふれつる
(春が来るたび心待ちにしていた梅の花。その枝に誰がいい加減な心で袖を触れ、残り香を移されたのでしょう)
大弐三位
また、小倉百人一首に選ばれている次の歌も有名です。
有馬山 ゐなの笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする
(有馬山の近くにある猪名の笹原に風が吹けば、そよそよと音がします。その音のように、どうして私があなたのことを忘れることがあるでしょうか)
賢子は、長元5年(1032)「上東門院菊合」、永承4年(1049)「内裏歌合(うたあわせ)」、永承5年(1050)「祐子(ゆうし)内親王歌合」、嘉保3年(1096)「権大納言師房(もろふさ)歌合」など、歌合に多く出席し、一流の歌人として名を馳せていきました。
賢子の晩年
賢子の晩年のことはよくわかっていませんが、仲睦まじかったといわれる成章は天喜6年(1058)に死去しました。その後、長く仕えた後冷泉天皇を見送り、延久5年(1073)には次代の後三条天皇への悼歌を詠じていることからもわかるように長生きし、83歳頃に没したといわれています。
まとめ
『勅撰和歌集』におおよそ40首が選ばれ、家集に『大弐三位集』がある藤原賢子。和歌の名手であるとともに、『源氏物語』『宇治十帖』の作者ではないかとの説もあるほど文才にも恵まれていました。また、天皇の第一皇子の乳母となって昇進を果たすなど、女官として、歌人として母・紫式部をしのぐような活躍を見せます。
まさに賢子の名にふさわしい女性であり、貴公子たちの目に眩しく映ったのも納得ですね。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/深井元惠(京都メディアライン)
イラスト/もぱ(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com FB
引用・参考文献/
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『日本古典文学全集』(小学館)