『源氏物語』に登場する鏡の和歌
A:鏡で自分の顔を確認するまひろの場面を見て、『源氏物語』に登場する鏡の和歌を思い出した人も多いのではないでしょうか。
I:私が好きな鏡の歌は、第23帖「初音」所収の「うす氷 とけぬる池の鏡には 世にたぐひなき かげぞならべる」です。大意は「薄氷がとけてきた鏡のような池の面には、この世にふたつとなく幸せなわたしたちの影が並んで映っています」。池の水面に映る幸せなふたりの姿が浮かびます。それに対して紫の上は、「くもりなき池の鏡によろづ代を すむべき影ぞしるく見えける」と返します。こちらの大意は、「みじんの曇りもない鏡のような池の面に、幾久しく暮らしていけるに違いない私たちの影がはっきりと見えるのでした」です。ずっとここに一緒に住んでいくふたりが池の水面に映っていますね、と返すわけです。いいカップルだなって心の底から思えます。
A:池の水面を鏡に見立てて詠まれた和歌ですね。『源氏物語』の中には、「鏡」を和歌にした作がほかにもあります。第10帖「賢木(さかき)」の「さえわたる池の鏡のさやけきに 見なれしかげを見ぬぞかなしき」(大意:一面に凍っている池の面が鏡のようにさやかに澄んでいるのに、お見慣れ申した院の面影を拝見することのできないのが悲しい)という光源氏の父である桐壷院が亡くなったのを嘆く歌も感慨深いです。
I:まひろの道長(演・柄本佑)への思いを投影しているかのような作もありますね。第12帖「須磨」の挿入歌「身はかくてさすらへぬとも 君があたり去らぬ鏡のかけは離れじ」(大意:私自身はこうして遠くへ流浪していこうとも、鏡に映る私の姿がここに留まってあなたの側にいるように、私の心もあなたから離れはしないでしょう)のほうがより恋しい人を思う鏡の歌なのかなと思います。
A:なるほど。
I:紫の上の返歌の「別れても影だにとまるものならば 鏡を見てもなぐさめてまし」(大意:お別れしましても、せめてあなたの影だけでも鏡にとどまるものなら、それを見て心を慰めることもできましょうに)も心をうちます。なんだか、劇中の道長とまひろの恋が『源氏物語』の中に秘されているような錯覚を覚えます(笑)。
A:『新編 日本古典文学全集』(小学館)の注釈には「姿を映した人の魂は鏡に留まるという民俗信仰があったものか」とあります。
I:鏡に映る姿はその人の魂そのものという考え方ですね。鏡には魂が宿るということです。そういうことを考えると、石山寺で出会うまひろと道長って、もしかしたら「鏡の中の物語?」と思ったりします。
A:さて、次回どんな物語が「映写」されるのでしょうか。
※『源氏物語』の引用は『新編 古典文学全集』(小学館)当該巻より
●編集者A:月刊『サライ』元編集者(現・書籍編集)。「藤原一族の陰謀史」などが収録された『ビジュアル版 逆説の日本史2 古代編 下』などを編集。古代史大河ドラマを渇望する立場から『光る君へ』に伴走する。
●ライターI:文科系ライター。月刊『サライ』等で執筆。『サライ』2024年2月号の紫式部特集の取材・執筆も担当。お菓子の歴史にも詳しい。『光る君へ』の題字を手掛けている根本知さんの仮名文字教室に通っている。猫が好き。
構成/『サライ』歴史班 一乗谷かおり