「殺人の上手なり」といわれる
頼親のもとには手荒な郎等が集まっていたようで、襲撃殺害事件をよく起こしています。たとえば、『今昔物語集』巻25「源頼親朝臣令罸清原 語 第八(欠文)」は、寛仁元年(1017)3月8日、頼親が、叔父の藤原保昌(やすまさ)の郎党に命じて、前大宰少監(だざいのしょうげん)・清原致信(きよはらのむねのぶ)を殺害した事件のことと推測され、致信が、当麻為頼の殺害に関与したことへの報復と考えられます。
保昌は和泉式部の夫、致信は清少納言の兄。男性たちの血なまぐさい抗争が、彼女たちの周辺で、頼親を中心に展開されていたわけです。こうした頼親の一連の行動に、道長は、「頼親は殺人の上手なり」(『御堂関白記』)と記しています。
晩年は土佐へ流される
3度目の大和守在任中、子の頼房(よりふさ)が興福寺大衆(寺僧の集団のこと)と合戦に及び、大衆側に死者が出たことで訴えられます。こうしてついに、永承5年(1050)、頼親は土佐へ流され、頼房も隠岐へ配流となりました。
頼親のその後の消息はよくわかっていません。ちなみに、頼房はのちに許されますが、承保3年(1076)再びの興福寺からの訴えで肥前に配流され、その地で死去しました。
ところで、頼親が拠点としていたのは、奈良盆地の南部に位置する大和国高市(たかいち)郡で、多くの私領を有していました。それらは頼房に伝領され、その系統から諸家が出たことで、頼親は大和源氏(やまとげんじ)の祖といわれます。
まとめ
大和国で大きな問題を起こしながら、3度も大和守に任じられ、「殺人の上手」とまでいわれてもなお地位を保った源頼親。最後には配流されますが、頼親の生涯には、朝廷政治の闇のようなものを感じずにはいられません。
清少納言や和泉式部に関わる人たちの血なまぐさい事件もあり、華やかに見える宮中のもうひとつの顔が垣間見えるようです。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/深井元惠(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
HP: https://kyotomedialine.com FB
引用・参考文献/
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『日本古典文学全集』(小学館)