外交史の中でも重要な施設だった「松原客館」
I:なるほど。確かに遣唐使の廃止以降のことですものね。さて、為時一行が最初に訪れた松原客館が我が国の外交史の中でも重要な施設だったということは理解しました。
A:敦賀には雑誌『サライ』連載「半島をゆく」で取材に訪れたことがあります。大陸と交流した指導者が葬られたと思われる5世紀の古墳群があり、南北朝期には斯波高経が金ヶ崎城に入城し合戦の舞台となっています。その金ヶ崎城は戦国時代に織田信長が入城し、有名な金ヶ崎の退き口が展開されることになります。古代から中世に、さらには戦国時代にかけても交通の要衝であり、歴史の舞台であり続けました(安部龍太郎著『日本はこうしてつくられた3』所収)。『光る君へ』で登場した「松原客館」は、現在も敦賀市内に鎮座する気比神宮の宮司が管理していたといわれる接遇施設ですが、敦賀のどこにあったのかはわかっていません。
I:北陸新幹線が敦賀まで延伸した年に「松原客館」が登場するとは感慨深いですね。
A:戦国時代の大谷吉継は敦賀城主でした。城郭は往時の面影はありませんが、敦賀市博物館になっている建物は旧大和田銀行本店で、俳優の大和田伸也、大和田獏さんの親戚筋が経営していた銀行だったそうです。
I:敦賀って、なんだか見どころいっぱいですね。
A:はい。横浜や函館では一大観光スポットになっている赤レンガ倉庫ですが、実は敦賀にも存在します。何しろ敦賀は明治には、「欧亜国際連絡列車」の起点としての機能を有していたほどです。東京の新橋駅から金ヶ崎駅までは汽車。敦賀からウラジオストクまでは直行船に連絡し、ウラジオストクからはシベリア鉄道に連絡して欧州に向かうというものです。このルートで東京からフランスのパリまで船便で1か月ほどかかっていたものが17日になったそうです。
I:藤原為時が向かった1000年前の越前は大陸に開かれた国際都市だったわけですね。
A:さて、為時は宋人とどのように接していくのでしょうか。
●編集者A:月刊『サライ』元編集者(現・書籍編集)。「藤原一族の陰謀史」などが収録された『ビジュアル版 逆説の日本史2 古代編 下』などを編集。古代史大河ドラマを渇望する立場から『光る君へ』に伴走する。
●ライターI:文科系ライター。月刊『サライ』等で執筆。『サライ』2024年2月号の紫式部特集の取材・執筆も担当。お菓子の歴史にも詳しい。『光る君へ』の題字を手掛けている根本知さんの仮名文字教室に通っている。猫が好き。
構成/『サライ』歴史班 一乗谷かおり