道隆が死去、定子の不遇な最期
一条天皇の中宮となった藤原定子。聡明で、明るい性格だったとされる定子は、一条天皇から寵愛されるようになります。また、この頃に、清少納言などの優秀な女房たちが集う文芸サロンを作ったとされ、清少納言の代表作『枕草子』が生まれるきっかけとなりました。
『枕草子』にも記述が見られる通り、笑顔の絶えない順風満帆な日々を過ごしていたとされています。しかし、その生活も長くは続きませんでした。長徳元年(995)に、父・道隆が亡くなったことで、中関白家の雲行きが怪しくなってしまったのです。
さらに翌年、定子の兄である伊周(これちか)と隆家が、花山(かざん)法皇の輿に矢を射かけるという大事件を起こし、中関白家の衰退は決定的となります。その後、長保2年(1000)に道長の長女・彰子(しょうし)が入内し、一条天皇の中宮となったのです。
彰子の入内は、中関白家の衰退をチャンスと見た道長が強引に決定したことで、天皇と言えども、二人の正妻を同時に持つことは異例だったとされます。中関白家の没落により、立場が危うくなってしまった定子。それでも、一条天皇からの寵愛を受け続け、次女・媄子(びし)内親王を出産しました。
しかし、その後すぐに亡くなってしまったのです。
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