不遇な幼少期を過ごすも、大出世を果たす
藤原行成は、天禄3年(972)、歌人・藤原義孝(よしたか)の子として生まれます。義孝は病に伏していたため、行成は祖父・伊尹(これただ)に養育されることとなりました。しかし、間もなく父が病死し、後を追うように祖父も亡くなってしまったのです。
当時の貴族社会では、親の社会的地位が子どもの出世に大きく影響しました。そのため、男親を亡くした行成は、成長しても昇進することができないまま、不遇の時代を過ごしたと言われています。そんな行成に転機が訪れたのは、長徳元年(995)、公卿の源俊賢(としかた)が蔵人頭を辞任した時でした。
俊賢は辞任の際、行成を後任に選んだのです。父や祖父の死後、行成は母方の祖父・保光(やすみつ)の庇護を受け、高い教養を身に着けていたそうです。俊賢は行成の学才を認め、後任に適していると判断したのかもしれません。行成は俊賢に深く感謝し、彼より位階が上になっても、決して上座には座らなかったという逸話が残されています。
こうして、行成は24歳にして異例の大出世を果たし、時の権力者・藤原道長とも深く関わっていくこととなったのです。
能書家として名声を上げる
不遇な時期から一転、蔵人頭に任命され、政界で活躍することとなった行成。長保3年(1000)に参議となり、後に権大納言にも任命されることとなります。昇進した後も、地道な努力を欠かさなかったとされる行成は、道長や一条天皇からの信任も厚かったそうです。
特に、娘・彰子(しょうし)を一条天皇の中宮につける際、行成が尽力してくれたことに感謝した道長は、彼の子の代までの特別待遇を約束したと言われています。道長政権下で活躍し、道長の右腕のような存在だった行成ですが、一方で、能書家としても名声を上げていました。
書道に関しては、他の追随を許さないほど優れていたとされ、小野道風(みちかぜ)・藤原佐理(すけまさ)とともに、「三蹟(さんせき)」として高く評価されたのです。行成の書風は世尊寺流として後世に伝えられ、『白氏詩巻』や『消息』などが、真跡として現存しています。
その後、万寿4年(1028)に56年の生涯に幕を閉じることとなった行成。同日に道長も亡くなっており、宮廷は大騒ぎになっていたのではないかと考えられます。
清少納言とのエピソード
道長に重宝され、宮廷で活躍した行成。平安時代を代表する作家・清少納言とも交流していたとされ、『枕草子』の中にも度々行成が登場しています。また、小倉百人一首の中には「夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも 世に逢坂の 関はゆるさじ」という、清少納言の歌が収められています。
これは、言い逃れしようとする行成に対して詠んだ和歌であるとされます。ある夜、清少納言と談笑していた行成は、宮中に用事があるからと早々に帰ってしまったそうです。
翌朝、「鶏の鳴き声に急かされて帰ったのです」と言い訳の文を送った行成に対し、清少納言は「函谷関の故事のような鶏の鳴き真似でごまかそうとしても、そうはいきませんよ」という歌を詠んだのです。
函谷関の故事とは、秦国に囚われてしまった孟嘗君(もうしょうくん)が、逃げるために部下に鶏の鳴き真似をさせて函谷関の関所を開かせたという話で、中国の史記に記されています。即座に史記の内容を例に挙げることができる清少納言の教養の高さはもちろん、少し茶目っ気のある行成の人柄も伝わってくるエピソードではないでしょうか?
まとめ
道長に重用され、また、三蹟として後世に語り継がれることとなった行成。残されている数々の逸話からは、素晴らしい才能と周囲から愛される人柄を兼ね備えていたと想像することができます。持ち前の才能と地道な努力によって、成功をつかみ取った人物と言えるのではないでしょうか?
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/とよだまほ(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
HP: http://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『日本人名大辞典』(講談社)
『山川日本史小辞典』(山川出版社)