世界に知られる日本最古の長編小説の著者、紫式部。1000年前に生きたひとりの女性の実像を、大河ドラマの時代考証を担当する古代史研究者が詳(つまび)らかにする。
「藤原道長に才を認められ、娘に仕えた女房が書いた物語です」
平安時代中期に記された日本最古の長編小説『源氏の物語』(以下『源氏物語』)の作者として知られる紫式部 の生涯を描く、令和6年の大河ドラマ『光る君へ』。
本作の時代考証を務める日本古代史研究者の倉本一宏さんに、紫式部という人物と、その時代背景について話を伺った。
「紫式部は、同時代に生きた藤原実資の日記『小右記』などに登場するため、実在が証明されているこの時代の数少ない女性のひとりといえます」
倉本さんの言葉に、1000年前の女性の姿が現実味を帯びて眼前に浮かび上がる心地がする。
「当時、文学作品を書いたのは、主に天皇の后や子らが住まう後宮に勤めた女房と呼ばれた女性たちでした。夫と同居した貴族の嫡妻は家事で忙しくしていました。文学を書いたのは、妾として夫が会いに通う不安定な身分で、女房として宮仕えした女性たちでした」
女房文学はおもしろく、後宮でもてはやされた。帝の子として生まれた光源氏とその子孫の恋愛を通じて、平安貴族社会を描いた『源氏物語』も、後宮で生まれた文学であると、倉本さんはいう。
後宮で一定権力を得た紫式部
「紫式部が『源氏物語』を書いたのは比較的若い頃だったと思われます。生前は『源氏物語』は後宮で実物を手にすることができた人たちの間だけで読まれていました。しかし優秀な女性だったのでしょう、一条天皇の妻、中宮彰子の側近女房として長く仕えました」
倉本さんによると、女房としての紫式部は父藤原為時の式部丞(しきぶのじょう)という役職名と、苗字から藤をとって藤式部(とうのしきぶ)と呼ばれていたのではないかという。紫式部の呼称は、亡くなった後、『源氏物語』の写本が出回り、光源氏の妻で運命に翻弄される物語のもうひとりの主人公、紫上(むらさきのうえ)にちなんでつけられた。
紫式部を見出し、自身の娘である中宮彰子の出産の様子を紫式部に依頼して『紫式部日記』に記させたのが、『光る君へ』のもうひとりの主人公、藤原道長だ。
「ドラマとは違い、史実ではふたりの出会いははっきりしません。道長と紫式部の父為時が親しかった可能性はあります。為時からうちの娘は賢いと聞いていたかもしれませんが、あくまで臆測です」
倉本さんによると、紫式部は中宮彰子の側近として、藤原実資ら公卿たちの取次役をしていたという。取次役のご機嫌いかんにより中宮に取り次いでもらえるか決まるため、ある程度の権力は持っていたのではないかと、倉本さんは推察する。ドラマの中では、紫式部はどのような女性として描かれるのか。時代考証に則った平安貴族の日々の暮らしの様子と併せて、楽しみにしたい。
解説 倉本一宏さん(国際日本文化研究センター教授・65歳)
※この記事は『サライ』本誌2024年2月号より転載しました。