家康譜代家臣の末裔、小栗上野介忠順。(写真/国立国会図書館)

『どうする家康』では登場することがなかったが、戦場の徳川家康に常に近侍していた譜代家臣がいた。小栗又一忠政。若干14歳の時に姉川合戦で家康の側に控え、その槍遣いで家康の危機を救ったと伝わる。合戦の度に、槍ひとつで功をあげ、「また一番槍か」と賞賛され、いつしか「また一番」から「又一」と称されるようになった強者だ。

慶長20年。家康最後の戦いとなった大坂の陣の際にも小栗又一の姿が家康の側近くにあったことが史料に記されている。夏の陣では、大坂方、特に真田信繁の猛攻により、一時、家康は死を覚悟したとも伝わるが、事実、合戦の際に家康に近侍していた小栗又一忠政は、鉄砲傷を負い、その傷がもとで家康のあとを追うようにこの世を去る。

功をあげるごとに家康から脇差などを拝領していたという小栗又一忠政。松平家草創期の安祥時代から仕えていたという「安祥譜代」であることを最大の誇りにしていた小栗家は、当主が代々又一を名乗り、約2500石の旗本として幕府を実務で支え続けた――。

徳川による日本の近代化の歴史

家康がほぼ天下を手中にした関ヶ原合戦から260年。小栗又一忠政の直系子孫で12代当主にあたる小栗上野介忠順(以下小栗上野介)の姿が、アメリカにあった。万延元年(1860)、日米修好友好条約の批准書交換のために派遣された徳川幕府遣米使節の目付としてアメリカを訪れていたのだ。

極東の島国から、ちょんまげ姿という異形でアメリカを訪れた幕府使節一行は、その物珍しさから各地で大歓迎を受け、大統領との面会、パーティ、パレード、ちょんまげ姿のサムライの近代的なホテルでの過ごし方など、彼らの動向は逐一イラスト付きで現地の新聞で報じられた。

令和の国会議員が物見遊山的に外遊するのとは異なり、小栗上野介は、工業化、近代化が高度に発展した大国アメリカから学ぼうと必死になっていた。

小栗は、工場で手にした1本のネジとともに帰国し、日本の近代化に着手する。横須賀に製鉄所、築地に日本初の本格的なホテルを建造し、さらには近代的な陸軍の創設にもかかわっていく。『明治維新の過ち』で知られる原田伊織氏は『小栗上野介抹殺と消された「徳川近代」』(小学館文庫)の中で、小栗ら幕臣の近代化構想が、幕府瓦解によって明治新政府の手柄にされたことを明らかにした。以下、引用である。

横須賀造船所には、ロープを作る製網所や船の帆布を織る製帆所も造られた。小栗が見学したワシントン海軍造船所そのままの姿であった。ドライバーやレンチといった工具類も生産され、ここで作られた工具や機械部品があったから、富岡製糸工場も成立したのである。富岡製糸工場は、設計そのものが来日したフランス人スタッフによるものであり、小栗の殖産興業施策の副産物であったともいえるのだ。つまり、日本の近代工業技術がこの造船所から国内へ広く流布、伝播していったのである。小栗を「明治の父」と呼んだ司馬遼太郎氏は、横須賀造船所を「日本近代工学の源泉」と評している。横須賀造船所は、当初「横須賀製鉄所」と呼ばれた。「横須賀造船所」となったのは明治四(1871)年のことである。

幕末の近代工業化については、藩校において異常なスパルタ教育を行った佐賀藩や、伝統的な「密貿易」藩であった薩摩藩が他に先行していたとされている。例えば、幕末に反射炉を備えていたのは、この二藩と水戸藩、そして、幕府(韮山代官所)ぐらいであったが、これらはいずれも水力を動力源としていた。これに対して、横須賀造船所は初めから蒸気機関を動力源とした工場であった。

ポーハタン号で渡米してワシントン海軍造船所で驚嘆し、小栗だけでなく副使村垣も夢見た近代工場は、僅か五年後には基礎工事が始められ、十年を経ずして我が国に実現していたのである。

明治四十五年、日露戦争時の聯合艦隊司令長官であった薩摩・東郷平八郎が小栗家の遺族を自宅に招き、横須賀造船所建設の謝辞を伝えたという話は余りにも有名である。小栗がこの造船所を残してくれていなかったら日本海海戦の完璧な勝利はなかったというのだ。その通りである。

東郷の乗っていた旗艦三笠や主力艦は、イギリス、ドイツ、アメリカから買ったものだが、中小の砲艦や足の速い駆逐艦、魚雷艇などは殆ど横須賀、呉で建造されたものであった。これらがバルチック艦隊を追尾して完璧に沈めたのである。

薩英戦争も体験している東郷は、小栗が残してくれた「土蔵」の価値をよく理解していたのである。大正四年、横須賀海軍工廠創立五十周年祝典が開催され、時の総理大臣、大隈重信は書簡を贈った。大隈はその中で、この造船所が小栗の努力の成果であること、ヴェルニーの尽力、東山道軍による小栗の斬首などを初めて明らかにしたのである。

それまで横須賀造船所は、明治新政府が造ったものとされていたのだ。

日本近代化の祖ともいえる小栗上野介は、元号が明治に改元される5か月前、新政府軍に取り調べを受けることなく斬首され落命する。大隈重信によって「明治政府の近代化政策は、小栗忠順の模倣にすぎない」とまで称された逸材の最期としては、あまりにも悲劇的である。

徳川家康による「天下統一」から約260年。徳川家臣団の末裔によって展開された日本の近代化が、明治新政府の手柄であるかのように喧伝されたのは、「歴史は勝者のもの」ということをもってすれば、いたし方ないことなのかもしれない。しかし、誇り高き幕臣たちの近代化政策がそのまま進んでいたとしたら、この国の歴史が変わっていたであろうことは間違いない。

原田伊織著『小栗上野介抹殺と消された「徳川近代」』(小学館文庫)

構成/一乗谷かおり

 

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