天璋院とともに、徳川家存続に尽力する
波乱の幕末を迎え、日に日に追い詰められていた徳川家。和宮と天璋院は、徳川家を守るべく、手を取り合うようになります。
慶応3年(1867)、15代将軍・慶喜が大政奉還を受け入れると、王政復古の大号令(武家政治を廃し、天皇親政を宣言する号令)のもと、討幕軍が江戸に迫ってきました。徳川家の滅亡を回避させるべく、2人はそれぞれの実家である京都の宮中と、倒幕軍の中心だった薩摩藩に使者を送り、徳川家の存続を訴えます。
慶応4年(1868)1月から始まった「戊辰戦争」の際、和宮は慶喜の懇願を受けて侍女を上京させ、家名存続を嘆願しました。和宮と天璋院の努力の甲斐あって、徳川家は明治以降も存続することができたのです。
和宮のその後
徳川家の存続が決定した後、和宮は一旦京都に帰ることになります。それから数年後の明治7年(1874)、再び東京に移り住みました。穏やかな暮らしをしていたとされる和宮。しかし、彼女は持病の脚気を患っていました。白米食が定着していた当時、ビタミンB1の欠乏によって引き起こされる脚気は、よくある病の一種だったのです。
明治10年(1877)、脚気治療のため、和宮は箱根で湯治を開始します。しかし、持病が悪化していたこともあり、同地で32年の生涯に幕を閉じることとなりました。
明治以降も、天璋院と和宮の関係性は良好でした。互いの屋敷を行き来したり、徳川家の後見人格となった勝海舟の屋敷を2人で訪れたりしたという逸話が残されています。徳川家のために共に戦った2人の間には、本当の家族のような絆が生まれていたのかもしれません。
まとめ
生前の意志に従い、和宮の墓は家茂と同じく、東京・芝にある増上寺に建てられています。徳川家の妻として、家名断絶の危機に立ち向かった和宮。家茂のためにも、徳川家を断絶させるわけにはいかないと考えていたのかもしれません。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/とよだまほ(京都メディアライン)
HP: http://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『日本人名大辞典』(講談社)
『山川日本史小辞典』(山川出版社)