父の死後、五大老に。「家康暗殺計画」目論むも未遂に
文禄3年(1594)4月、父・利家が隠居。それに伴い家督を継ぎ、金沢城へ。慶長4年(1599)3月、利家の死去により、五大老に列することとなります。利家は利長に対し、秀頼の後見役として大坂に詰めるよう、遺言を残しました。
しかし、同年8月、徳川家康の勧めにより金沢へ帰国。この行動は、豊臣政権での重責を放棄し、徳川方の権勢を強めることでもありました。
この時期、浅野長政、土方雄久、前田利長らが「家康暗殺」を計画したものの、五奉行のひとり増田長盛により家康に密告され、未遂に終わったという出来事があったようです。
9月初旬、伏見にいた家康は大軍を率いて大坂へ下向。下旬には、大坂城に入場し、諸大名は残らず家康のもとに参上しました。しかし、家康は利長に「上洛無用」と通告したのです。
このことを契機に、家康との関係が悪化。その後、家康に屈する形で、母・芳春院を人質として江戸に出すことで和解しました。12月には、権中納言を辞退しました。
関ヶ原の戦いでは、東軍につく
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いでは、東軍の徳川方について戦いました。加賀国大聖寺城の山口宗永を討って、北陸情勢を優位にしたのです。戦後、加賀・能登・越中3国に119万2700石余りを拝領しています。ちなみに能登国は弟の利政がおさめていましたが、家康に従わなかったため利長に還付された形です。
慶長10年(1605)、家督を腹違いの弟である利常に譲り、隠居。越中国新川郡22万石を養老領として、富山城に移りました。その後、富山城が焼失して、高岡城(=現在の富山県高岡市)に移っています。
隠居した後も、徳川氏との融和を図り続けました。利常は徳川秀忠の娘・珠姫と結婚し、本多正信の次男・本多政重を5万石という破格の禄で重臣に迎えています。
慶長19年(1614)、病が重くなり、高岡城を破却して京都で隠棲することを希望。その願いは聞き届けられましたが、京都へ移る前に高岡城で死去しました。
まとめ
前田利長は、豊臣氏と徳川氏の対立が深まる中、前田家存続のために尽力した人物だと言えます。関ヶ原の戦い後は、譜代・外様を通じて最高禄の大名となりました。とはいえ、徳川幕府との緊張関係が残っていた時代であるがゆえに、徳川氏との関係構築に人一倍心を砕いていたとも言えるでしょう。
それは病が重くなる中、「自分の領地を幕府に任せる」と願い出た行動や、利長の遺言「皇家に藩屏し忠に懈る勿れ(おこたるなかれ)。幕府の命に違う勿れ。政事を荒失する勿れ。愛憎を以て訟獄を決する勿れ」にも、よく表れています。
治政では、新田開発と越中総検知を行ない、徴税法を整備しました。これらのことを考えると、加賀百万石の礎を築いたのは、利長の力が大きかったと言えるのではないでしょうか。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/京都メディアライン
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引用・参考図書/
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)