関ヶ原の戦い、だが動かず
石田三成により西軍総大将となった輝元。自身は大坂城に入り、現場へは養子の秀元(ひでもと)を送ります。秀元は吉川広家(きっかわひろいえ、叔父・元春の子)とともに南宮山に陣を張りました。ところが広家は出撃の気配なく、秀元も軍を動かすことができません。毛利勢は関ヶ原の戦いを何もせずに終えたのです。
実は西軍不利と踏んでいた広家が家康と内通し、本戦に不参加を条件に領国安堵の約束を取り付けていたのでした。そうとは知らない(知っていたという説もあり)輝元は豊臣秀頼(とよとみ・ひでより)を補佐し、離反者の情報収集などに当たっていました。やがて敗戦の知らせ。輝元は家康に説得され、大坂城をあとにしました。
長州藩の実質上の藩祖となる
しかし、家康は輝元が大名らに西軍参加を呼び掛ける書状を送るなど、積極的に指揮を執っていたことを知ると、約束を反故。毛利に安堵されたのは、結局、周防(すおう)・長門(ながと)の2か国のみでした。
輝元は剃髪して宗瑞 (そうずい) と称します。そして嫡男・秀就(ひでなり)が当主となりますが幼かったため、政務は輝元が取り仕切っていました。輝元は、1604年(慶長9)、新たな拠点として、萩(はぎ)城を築城。長州藩の始まりです。名目上の藩祖は秀就ですが、事実上は輝元が藩祖といえるでしょう。
大坂冬の陣・夏の陣にも参戦
豊臣と徳川の戦い、慶長19年(1614)の「大坂冬の陣」では、病を押して徳川方として参戦。しかしこのとき、同じ毛利一族の内藤元盛(ないとう・もともり)を大坂城に遣わし、軍資金などを提供したといわれています。お家存続のため天秤にかけたのか、豊臣方への情けか、それは諸説あるようです。
翌年の「大坂夏の陣」では、秀元を徳川軍に派遣。一方で元盛の件が露見しますが、元盛は口を割らずに自刃したため、輝元への嫌疑は不問となりました。このとき輝元は、証拠隠滅のため、長州に戻った元盛のふたりの息子を自害させるという非道な一面をみせました。
戦いの日々は終わり、寛永2年(1625)、輝元は萩で没しています。
まとめ
関ヶ原の戦いでの吉川と家康の密約を、輝元は知らなかったとも、知っていたといわれます。いずれにしても、輝元が西軍総大将として目指すところは、さらなる西への勢力拡大でした。天下統一を掲げる家康とは大きな意識の差があったのです。また吉川、小早川にも支えられていたことから、思惑の異なる人物の動向にも翻弄されました。
しかしどのような状況でも、輝元はぶれることなく家名存続を優先しました。その結果、毛利は明治の世まで名門としてその名を刻み続けました。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/深井元惠(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
日本大百科全書(小学館)