ライターI(以下I): 『どうする家康』第37回では、伊奈忠次(演・なだぎ武)が登場して、家康による「江戸の街づくり」の概要が、〈城下と平川を堀でつないだ今、次はこの日比谷入り江をどうするか。神田山を削り、その土で日比谷入り江を埋め立てまする〉と語られました。
編集者A(以下A):歴史作家の安部龍太郎先生は、小説『家康』の取材の一環として家康による「江戸の街づくり」について実際に街を歩きながら調査しました。その概要は『日本はこうしてつくられた3 徳川家康 戦国争乱と王道政治』にまとめられています。本稿では、同書から適宜引用しながら、江戸の成りたちについて触れていきたいと思います。
東京駅八重洲北口から出土したキリシタン墓
東京駅で水本和美先生と合流した。
専攻は考古学や陶磁史で、発掘した陶磁器の破片などから年代比定をする研究をしておられるという。
まず案内してもらったのは八重洲北口の北町奉行所の跡だった。といっても巨大なビルの間にわずかな空地があり、奉行所の石垣が移転して保存されているばかりである。
東京駅の東側に南北に走る外堀通りは、かつて江戸城西の丸下の外堀があった所で、堀の外側には町人の居住地が広がっていた。そこで幕府は堀の内側に北町奉行所と南町奉行所を置き、城下の治安維持に当たらせたのである。
「興味深いのは、二・七メートル下の地層からキリシタン墓が発見されたことです。体を伸ばした形で棺に入れられていた遺骨や、キリシタンの証であるメダイ(メダル)が見つかりました」
「それはヤン・ヨーステンと関係のある人でしょうか」
私はそうたずねた。八重洲の地名はオランダ人ヤン・ヨーステンの屋敷があったことに由来するという説がある。彼に類縁ある者の遺骨ではないかと思ったのだった。
「ところが地層は一五九〇年代から一六〇〇年代のものなのです。家康が関東に入封する前にこの地に住んでいた人だという可能性もあります」
「北条氏の支城の頃ということでしょうか」
「その可能性もあります。小田原北条家も案外西国を通じた交易をしていたようで、八王子城からはヴェネチアグラスの破片が出土しているのです」
「南蛮貿易に関わっていたということですか」
「そう考えることもできると思います。それに寛永期に造られた外堀の下から、障子堀の堀の跡が発見されています」
「それは北条家が造ったものですね」
「ええ。箱根の近くの山中城の例でも分かるように、小田原北条家は障子堀をよく使っていますので、その可能性もあります」
それを聞いて腑に落ちることがいくつもあった。
家康が入封した頃の江戸城は、太田道灌が築いた古い城のままだと考えられがちだが、関東の覇者だった北条家が百年も前の粗末な城をそのままにしておくはずがない。
先にも見たように江戸湾は奥州と畿内を結ぶ水運の要地で、「西国の船数千艘」が出入りしていたのだから、関銭(関税)や津料(港湾利用税)を徴収するためにも、港湾設備とそれを守るための城を整備していただろう。
それに北条家も南蛮貿易とリンクして、火薬の原料である硝石や弾を作る鉛を入手しなければ鉄砲を使えないのだから、西国との安定した交易ルートを確保していたはずである。
そうした交易に従事していたのは、「湊船帳」に記された伊勢や熊野の船主や問丸の子孫たちだったのではないか。彼らは伊勢神宮の力を背景として廻船の自由を獲得し、雑賀(和歌山県)の一向一揆とつながることで硝石や鉛を入手していたのではないか。
キリシタン墓や障子堀の跡は、そうした想像を可能にする力を秘めている。家康が江戸を本拠地としたのは、北条氏が築いたにぎわいをそっくり受け継ぐためだったのである。
都心の地下に眠る、江戸、戦国、そして北条の痕跡
我々は八重洲北口の遺跡を見て、外堀通りを南に向かって歩いている。
外堀が整備されて鍛冶橋門や数寄屋橋門が設置されたのは、徳川家光が将軍だった寛永十三年(一六三六)のことだ。
ところが外堀通りに面した丸の内一丁目遺跡(現リクルート東京本社ビル)からは、北条家が築いたと思われる障子堀の跡が発掘されたのである。
「同じ場所から土留めに用いたと思われる杭列と竹しがらみも発見されました。細い丸竹を杭の前後にからめて面を作ったものです」
水本和美先生が歩きながら説明して下さった。
あたりは高層ビルが建ち並び、通りには結構なスピードで車が行き交っている。見慣れた大都会の風景だが、地下には小田原北条氏の城の遺構が眠っていたのである。
「北条氏が江戸城を拠点としたのは六十六年間ということになりますね。その頃の様子は分かっているのでしょうか」
私も歩きながらたずねた。
「残念ながらほとんど分かっていません。しかし太田道灌時代の様子は、万里集九という禅僧が記した『梅花無尽蔵』からうかがうことができます」
収録された「静勝軒銘詩并序」などの詩文によると、江戸城の様子は次のようだったという。
城は子城(本丸)、中城(二の丸)、外城(三の丸)から成り、二十か所の櫓と五か所の石門があった。
城のまわりには土塁や堀が巡らされていて、断崖には橋がかけられていた。
中城には静勝軒と名付けた道灌の館や家臣の詰所があり、城内には五十六か所もの井戸があって干ばつがあっても干上がることはなかった。
この頃の城は、家康時代の江戸城の本丸、二の丸に立地していたと考えられている。
そして、北条氏の時代になると、外堀通りに障子堀を築くほどに整備、拡張していた可能性が出てきたのである。
ちなみに『徳川実紀』は、関東に入封した頃の江戸城について次のように伝えている。
“本丸より二、三丸まで古屋残れり。多くはこけらぶきはなく。みな日光そぎ飛州そぎなどというものもてふけり。中にも厨所の辺は萱茨にていとすすけたり。”
日光そぎ飛州そぎとは、日光杉や飛騨杉の杉板のことだと思われる。
ところが水本先生たちの調査によって、丸の内一丁目遺跡から大量に出土した木端材は、柿葺の屋根材だと判定された。コンクリートの地面の下から、『徳川実紀』には描かれていない江戸が姿を現したのだった。
I:当たり前といえば当たり前のことですが、高層ビルが林立する東京都心の地下には、江戸や戦国時代の痕跡が眠っているのですね。
A:そして、小田原北条氏の時代の江戸が「消された」という印象もありますね。障子堀の跡などは地方で見つかっていたら、観光資源になっていたかもしれませんが、東京都心ではそれは望むべくもなく、また埋め戻され新たな高層建築物が聳え立つ。
●編集者A:月刊『サライ』元編集者(現・書籍編集)。歴史作家・安部龍太郎氏の『日本はこうしてつくられた3 徳川家康 戦国争乱と王道政治』などを担当。『信長全史』を編集した際に、採算を無視して信長、秀吉、家康を中心に戦国関連の史跡をまとめて取材した。
●ライターI:三河生まれの文科系ライター。月刊『サライ』等で執筆。『サライ』2023年2月号 徳川家康特集の取材・執筆も担当。好きな戦国史跡は「一乗谷朝倉氏遺跡」。猫が好き。
構成/『サライ』歴史班 一乗谷かおり