「大坂の陣」と、悲しい最期
「関ヶ原の戦い」から3年後の慶長8年(1603)、征夷大将軍に就任した家康は、江戸に幕府を開き、200年以上続く江戸時代が始まったのです。幕府を開いたことで、家康が天下人になったと思われがちですが、この時点では完全にそうとは言い切れませんでした。豊臣家の後継者である秀頼が、関白に就任する可能性があったからです。
秀吉が関白に就任した際、室町幕府の15代将軍・足利義昭(あしかが・よしあき)が、征夷大将軍を務めていました。しかし、義昭が征夷大将軍だからといって、秀吉の行動が制限されることはありませんでした。したがって、天下人として頂点に立っていたのは、関白である秀吉だったのです。
もし、同じような状況になった場合、征夷大将軍である家康ではなく、関白に就任した秀頼こそが正当な天下人であると周囲は認識してしまうかもしれません。また、かつての天下人・秀吉の息子ということもあり、秀頼は周囲からの厚遇を受け続けていました。天下統一を目指す家康にとって、秀頼は自分の立場を脅かす存在だったと言えるでしょう。
幕府の将来を確実なものにしたいと望む、家康。慶長19年(1614)、自身のすすめで秀頼に京都の方広寺大仏を再建させた際、同じく鋳造した鐘の銘文にあった「国家安康」の文字に難癖をつけます。「家康の名を分割することで、徳川家を呪詛している」と言いがかりをつけたのです。
これを機に、家康は秀頼に対し、徳川家への臣従を迫りましたが、秀頼はこれを拒否。そして、慶長19年(1614)冬と、元和元年(1615)夏の二度に渡る「大坂の陣」が勃発したのです。「大坂冬の陣」と呼ばれる最初の戦いでは、大坂城の守りが固く、簡単に打ち破ることができなかったため、家康は一旦豊臣家と講和を結びます。
しかし、家康は大坂城攻略を諦めることなく、講和条件を無視して内堀の埋め立てを強行。城郭を破壊したことで再び戦いが始まると、徳川軍は豊臣軍を次々と破り、慶長20年(1615)5月8日、ついに大坂城が落城します。
大坂城を攻略された秀頼は、母の淀殿とともに自刃し、23年という短い生涯に幕を閉じたのです。
まとめ
豊臣家の後継者として、周囲からの注目を集めた豊臣秀頼。「大坂の陣」の前に二条城で秀頼と面会した家康は、彼の風格を恐れたという逸話が残されています。当時の家康にとって、若く活力に満ちた秀頼は、最大の脅威だったのかもしれません。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/とよだまほ(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『日本人名大辞典』(講談社)
『山川日本史小辞典』(山川出版社)