はじめに-大野治長とはどんな人物だったのか?

大野治長(おおの・はるなが)というと、淀殿(茶々)との密通説があった人物だと記憶している方も多いのではないでしょうか? 当時から淀殿との艶聞が噂され、俗説では“姦佞(かんねい)の徒”とまで言われたりもしたそうです。もしくは、大坂の陣開戦を扇動し、豊臣家滅亡の端緒を作った人物と記憶している人もいるかもしれません。

では、実際の大野治長とは、どのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、紐解いていきましょう。

NHK大河ドラマ『どうする家康』では、茶々・秀頼の側近として最後まで豊臣への忠義を貫いた、しぶとい男(演:玉山鉄二)として描かれます。

大野治長像(『大坂夏の陣図屏風』より抜粋)

目次
はじめに-大野治長とはどんな人物だったのか?
大野治長の生きた時代
大野治長の足跡と主な出来事
まとめ

大野治長の生きた時代

大野治長は、安土桃山時代の武将です。織田信長が戦国動乱を終息させ、後を継いだ豊臣秀吉が天下統一を成し遂げた時代に、彼は生きました。日本史では極めて重要な時代でありながら、数字で表すと、わずか30年ほど。

そうした時代の中で、治長は時代の大きな転換点となる戦いに関係していきます。

大野治長の足跡と主な出来事

大野治長の生年は、はっきりとしていません。没年は、元和元年(1615)です。その生涯を出来事とともに紐解いていきましょう。

母親は、茶々の乳母

大野治長の出自や生年は、はっきりしていません。母親は大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)で、茶々の乳母で、のちに侍女となった女性でした。そうしたことから考えると、治長と茶々(のちの淀殿)は、幼馴染のような関係にあったのかもしれません。

通称は、修理亮(しゅりのすけ)です。

『伝淀殿画像』(奈良県立美術館所蔵)

豊臣家に仕える

治長は、豊臣秀吉の馬廻として仕え始めることに。この時、同僚には真田信繁(さなだのぶしげ)がいました。

その後、文禄3年(1594)には1万石を領し、従五位下侍従に叙任されています。この年には、伏見城の工事を分担しているという記録が残されています。

「徳川家康暗殺未遂事件」を起こす

秀吉の死後は、秀吉の子・秀頼に近侍。警護2番衆の隊長となります。

その後、慶長4年(1599)9月、浅野長政、土方雄久らと共に徳川家康暗殺未遂事件を起こします。しかし、暗殺は失敗。捕らえられ下野(=現在の栃木県)結城へと追放されます。

しかし、翌年、石田三成が挙兵し、関ヶ原の戦いが起こると赦されました。治長は、東軍(徳川方)につき戦います。

淀殿・秀頼を補佐。次ページに続きます

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