淀殿・秀頼を補佐
関ヶ原の戦い後、治長は再び豊臣家に仕え始めます。そんな中、慶長19年(1614)10月、「方広寺鐘銘事件」が起こるのです。ここで「方広寺鐘銘事件」の概要について、かいつまんでご紹介いたしましょう。家康のすすめで京都の方広寺大仏を再建させた、秀頼。再建後、徳川方は鋳造した鐘の銘文「国家安康」に対して、「家康の名を分割することで、徳川家を呪詛している」と言いがかりをつけたのです。このことを機に、秀頼に対して徳川家への臣従を迫ったという事件になります。
この時、豊臣方から徳川方への使者は片桐且元(かたぎり・かつもと)でした。徳川家康のいる駿府と大坂を往来する且元の行動に疑念を抱いた淀殿は、大坂城から彼を追放します。
且元が去った後、治長は秀頼を支える中心的人物となるのです。この時の知行は、わずか1万石。しかし、城内第一の出頭人となります。同年に起こった大坂冬の陣では、織田有楽斎(うらくさい)とともに停戦和議に尽力しました。
元和元年(1615)の大坂夏の陣では、秀頼の妻であり、家康の孫娘・千姫を大坂城から脱出させました。そのことに加えて、「自らは切腹をするから、秀頼・淀殿を助けてほしい」と嘆願しましたが、すべて徒労に終わってしまいます。
5月8日、山里郭にて、秀頼ならびに淀殿に殉じて自害します。
秀頼は、秀吉ではなく治長の子だったのか?
治長と淀殿の間には、当時から密通説が囁かれていたと言います。これについて、『朝日日本歴史人物事典』では以下のように記されていますので、ご紹介いたしましょう。
『萩藩閥閲録』には治長が密通の罪により宇喜多秀家に預けられたと記す文書もみられるが、事実ではない。また『明良洪範』は鶴松(秀吉の第1子)も秀頼も共に淀殿と治長の不義の子とするが、これも信じ難い。
秀頼の出生については様々な説がありますが、現在確かなことは、“裏付けのある情報はない”ということでしょう。
まとめ
人の噂とは、怖いものです。「大野治長」というと何を為した人物かということよりも、淀殿との密通説が先に来るようです。
その真偽はさておき、彼の人生を眺めてみると、最後まで豊臣家が存続するために力を尽くした人物だと言えるのではないでしょうか?
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/京都メディアライン
HP: http://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)
『日本大百科全書』(小学館)
『日本人名大辞典』(講談社)