江戸幕府10代将軍となる
宝暦10年(1760)9月、父・家重の譲りを受け、家治は将軍に就任します。翌年、父・家重が死去。家重の遺言により、田沼意次を重用するようになります。そのうち、田沼によって情報が統制されるようになり、家治自身の政治的活動は徐々に制限されていきました。
結果、政治の実権は田沼が握り、家治の政治的能力が発揮されることはありませんでした。そのため、家治は趣味の世界に没頭していくのです。特に絵画が得意だったので、家治は自作の絵を臣下たちに贈っていたと言います。中でも傑作ができた時には、「政事之暇(せいじのひま)」という落款(らっかん)を押したとか。自虐とも、皮肉とも取れる落款ですね。
将棋の腕前も磨かれ、『将棋攷格』という詰将棋の書を出すほどでした。
2男2女が早世、一橋家・家斉を養子に迎える
家治は、世嗣であった家基に先立たれるなど、自身の子供は早世するという不幸が続きます。そのため、一橋家・治済(はるさだ)の長男・家斉(いえなり)を養子として迎えるのです。その背景には、田沼からの助言がありました。
天明6年(1786)8月初旬、家治は水腫のため療養していました。16日に田沼が連れてきた町医者の調合薬を飲んだところ、25日に急死。享年50歳でした。
この家治の死は、反田沼派に政治利用されます。結局、田沼は26日に辞職を申し出、翌々日の27日には老中を罷免されることとなるのです。
反田沼派の謀により、家治は死すら、すぐに公表されませんでした。発喪は、田沼失脚後の9月8日でした。家治の死後、権力闘争が続き、翌年6月、松平定信が老中となります。定信もまた、吉宗の孫に当たります。
まとめ
吉宗の膝下で養育された家治は、幼い頃から従順で温厚な性格であったと言われています。主体的な行動が取れない性分を考えると、将軍には不向きだったのかもしれません。
だからといって、将軍の役割を結果的に放棄したことは、許されることではないでしょう。しかし、その死すらも政治的に利用されてしまう悲しき最期には、同情を禁じ得ません。
文/京都メディアライン
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引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)