江戸幕府10代将軍となる
宝暦10年(1760)9月、父・家重の譲りを受け、家治は将軍に就任します。翌年、父・家重が死去。家重の遺言により、田沼意次を重用するようになります。そのうち、田沼によって情報が統制されるようになり、家治自身の政治的活動は徐々に制限されていきました。

結果、政治の実権は田沼が握り、家治の政治的能力が発揮されることはありませんでした。そのため、家治は趣味の世界に没頭していくのです。特に絵画が得意だったので、家治は自作の絵を臣下たちに贈っていたといいます。中でも傑作ができた時には、「政事之暇(せいじのひま)」という落款(らっかん)を押したとか。自虐とも、皮肉とも取れる落款ですね。
将棋の腕前も磨かれ、『将棋攷格』という詰将棋の書を出すほどでした。

2男2女が早世、一橋家・家斉を養子に迎える
家治は、世嗣であった家基に先立たれるなど、自身の子供は早世するという不幸が続きます。そのため、天明元年(1781)、一橋家・治済(はるさだ)の長男・家斉(いえなり)を養子として迎えました。その背景には、田沼からの助言があったといいます。
天明の大飢饉と社会不安
家治の治世後半は、天明の大飢饉(1782~1787年)をはじめとする災害に見舞われました。浅間山の大噴火(1783年)は関東一円に被害を及ぼし、多くの農村が荒廃。これに伴い、百姓一揆や打ちこわしが頻発し、都市と農村の両方で深刻な社会不安が広がりました。
家治の死は、政治利用され…
天明6年(1786)8月初旬、家治は水腫のため療養していました。16日に田沼が連れてきた町医者の調合薬を飲んだところ、25日に急死。享年50歳でした。
この家治の死は、反田沼派に政治利用されます。結局、田沼は26日に辞職を申し出、翌々日の27日には老中を罷免されることとなるのです。
反田沼派の謀により、家治は死すら、すぐに公表されませんでした。発喪は、田沼失脚後の9月8日。家治の死後、権力闘争が続き、翌年6月、松平定信が老中に。その後、江戸幕府の体制は松平定信による「寛政の改革」へと移行していきます。

【『大奥 Season2』で描かれた、徳川家治。次ページに続きます】
