はじめに―長束正家とはどんな人物だったのか?

長束正家(なつか・まさいえ)は、安土桃山時代の大名です。信長の家臣・丹羽長秀(にわ・ながひで)に仕え、彼の死後、秀吉の家臣になりました。

太閤検地や、豊臣家の蔵入地の管理で功績を挙げた正家。天正15年(1587)の九州征伐や、天正18年(1590)の小田原征伐では、兵糧奉行として兵站(へいたん=作戦に必要な物資の補給や整備・連絡などにあたる機関)の確保に尽力しました。

計数に長け、非常に頭が良かったことから、長秀や秀吉から重宝されていた正家。家臣団の頭脳のような存在だったように思われますが、実際の長束正家はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、紐解いていきましょう。

2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、豊臣政権の財政を一手に担った、真面目で正義感が強い五奉行の最年少(演:長友郁真)として描かれます。

目次
はじめに―長束正家とはどんな人物だったのか?
長束正家の生きた時代
長束正家の足跡と主な出来事
まとめ

長束正家の生きた時代

長束正家の生年については、分かっていません。最初の主君・丹羽長秀は天正13年(1585)に没しているため、おそらく永禄3年(1560)頃に生まれたのではないかと考えられます。正家がこの年代に生まれていたと仮定すると、信長が武将としての頭角を現した頃に、幼少期を過ごしていたことになります。

信長の家臣である長秀に仕えていることから、正家は破竹の勢いで勢力を拡大した信長に、大きく影響されていたのかもしれません。

長束正家の足跡と主な出来事

長束正家は、豊臣政権下で五奉行として活躍し、慶長5年(1600)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。

丹羽長秀に仕える

長束正家は、近江国(現在の滋賀県)に生まれたと伝えられています。信長の家臣・丹羽長秀に仕えた正家は、非常に忠勤で有能だったことから、大変重宝されていたそうです。その後、天正13年(1585)に長秀が没すると、長秀の嗣子・長重(ながしげ)を補佐するようになりました。

豊臣秀吉に仕える

正家が長重のもとで補佐役を務めていたとき、長重は秀吉から目をつけられてしまいます。秀吉と敵対していた武将・佐々成政(さっさ・なりまさ)と内通しているという嫌疑をかけられたのです。これにより、長重は、越前・若狭・加賀二郡123万石から、若狭15万石へと大幅に減封されました。

さらに、秀吉は長重の重臣を複数引き抜きました。その中の一人が、正家です。秀吉は正家に対し、今後は自分に仕えるように命じましたが、正家はこれを拒否。「無実の罪を着せられた長重を見捨てて、豊臣家の家臣になることはできない」という正家の主張が一理あると感じた秀吉は、正家を家臣とする代わりに長重の疑いを解くことを約束したのです。

算用方として活躍、五奉行に抜擢される

秀吉の奉公衆(主君の近くで諸役を担当した者)となった正家。計数に長け、財務に精通していたため、算用方として重宝されました。天正15年(1587)の「九州征伐」や、天正18年(1590)の「小田原征伐」、文禄元年(1592)の「朝鮮出兵」の際には、兵糧奉行として活躍します。

さらに、名護屋城(現在の佐賀県にあった城)や伏見城(現在の京都府にあった城)の工事も、一部担当しました。豊臣政権下で多彩な活躍を見せた正家は、文禄4年(1595)に近江水口城5万石を与えられ、豊臣家家臣団の主要メンバーとも言える五奉行の一人に抜擢されたのです。

水口城資料館(滋賀県甲賀市) 
乾矢倉が再移築・復興されている。

「関ケ原の戦い」と、無念の最期。次ページに続きます

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