「関ケ原の戦い」と、無念の最期
秀吉の死後、正家は同じく五奉行のメンバーだった石田三成に接近します。正家が三成に与したことで、彼と対立していた家康との関係が悪化することに。会津征伐を行おうとした家康を正家は必死で説得しますが、聞き入れてもらえず、居城である水口城で家康を待ち構えて暗殺しようとしているという噂まで流れてしまいました。
これにより二人の対立は決定的なものとなり、慶長5年(1600)、正家は三成率いる西軍に与して家康と戦うことになったのです。関ケ原本戦では、敵陣の浅野幸長(あさの・よしなが)や池田輝政(いけだ・てるまさ)らと銃撃戦を繰り広げて西軍を支えるも、敗走してしまいます。
何とか水口城に逃れた正家でしたが、東軍の軍勢に攻められ、城を開いて自決することに。五奉行の一員として豊臣政権を支えた正家は、39年の生涯に幕を閉じることとなったのです。
まとめ
あらゆる分野で豊臣政権を支えた長束正家。非常に真面目で実直な性格だったと伝えられているため、同じく誠実だったとされる三成と馬が合ったのかもしれません。壮絶な最期を迎えた正家ですが、全ての責任をとり、潔く散った最期は、誠実な彼らしい終わり方だったのかもしれません。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/とよだまほ(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)
『日本人名大辞典』(講談社)