「五奉行」の一人として活躍する
京都所司代を務め、秀吉の家臣として仕えるようになった玄以。有職故実に精通している点や、品行方正な振る舞いが高く評価され、玄以は秀吉から重用されるようになります。天正13年(1585)には、丹波亀山5万石を与えられ、慶長3年(1598)に秀吉が「五奉行の制」を定めると、その一人として抜擢されました。
禁裏御用地(天皇の住居など)や門跡領(もんぜきりょう、皇族・貴族の子弟が出家して、入室している特定の寺院)、寺社領や洛中洛外の管理など、主に公家や寺社の庶務を担当していた玄以。就任後1年足らずの間に、玄以が出した裁決状が70通におよぶことから、非常に仕事熱心だったことがわかります。
「関ケ原の戦い」勃発、家康から本領安堵される
秀吉の死後、家臣の石田三成と徳川家康が主導権をめぐって争うことに。そして、慶長5年(1600)、天下分け目の戦いと呼ばれる「関ケ原の戦い」が勃発したのです。この戦いで、玄以は西軍に与して大坂城の留守居を務め、家康率いる東軍とは敵対関係にありました。
しかし、三成の動向を家康に伝えるなど、両者の間を立ち回っていたのです。西軍に与していたものの、玄以は最後まで東軍と戦うことはなく、戦いは家康の勝利で幕を閉じました。中立の立場を保っていたことから、玄以は家康から咎められることなく、本領を安堵されたそうです。
争いを上手く切り抜け、戦国の世を生き抜いた玄以。慶長7年(1602)、64年の生涯に静かに幕を閉じました。
まとめ
「三英傑」と呼ばれる、信長・秀吉・家康の時代を生きた徳善院玄以。高い教養と篤実な性格が、高く評価されていたことがわかります。外交や内政の面において、広く活躍した人物であると言えるでしょう。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/とよだまほ(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)
『日本人名大辞典』(講談社)